エネルギーの反転が始まった !

きのうのエッセイで私は『「禁欲主義」を手放すために「禁欲」の教えを遂行した ?』とお話しましたが、いよいよ意識の反転が起き始めたようです。

 

私の中で禁欲主義は自己犠牲とつながりました。

 

すると突然浮かんできたのが「絶望、失望からの解放」という言葉です。

 

どうやら私 (の潜在意識) は自分を捨て去ることで自分自身であろうとしてきたようです。

この屈折(笑)したロジックの正体は、確か心理学用語にあるはずなのですが、今はどうしても思い出せませんので、今の私にできる表現の限界にチャレンジしてみますね。

 

私は自分自身を捨て去る段階で「抑圧」の働きを優位に立たせた。

その「抑圧」の対象は希望であり、生きる喜びだった。

 

希望と生きる喜びを犠牲にすることで私は絶望と失望という感情がわきおこるように自分自身に仕向けていた。

 

禁欲主義とさらに自己犠牲は私に強い「絶望」と「失望」を与えた。

 

けれど私のそもそもの願いは「希望」であり「生きる喜び」だった、

それらを取り戻すために禁欲主義と自己犠牲に執着していた。

 

その禁欲主義への強い執着、同時に自己犠牲への強い執着、それは共に「依存感情」でもあるわけですが、昨日のエッセイを書き進めるうちに、「執着」と「依存」のエネルギーが急激に弱まり、

その反動で「絶望、失望からの解放」が起き、さらにそれは元々の私の願望であった「希望と生きる喜び」へと大転換が起こった、ということです。

 

わかりにくいですよね、この文章(苦笑)。

 

つまり、私は元々は「希望」と「生きる喜び」が大好きでそれをダイレクトに感じたかったけれど、すごく大回りをしてわざと「希望」や「生きる喜び」を見失う方向へと進んでいたのが昨日まで。

それも信じられないほどのドップリ加減で。

 

ところがそれはフェイントであることに気づき、そのフェイントのツールであった「禁欲主義」と「自己犠牲」は本当に私が欲していたものではなかったことに「今」気づいた。

 

そうしたら「フェイクパートナー」である「禁欲主義」と「自己犠牲」が輝きだして、真のパートナーである「希望」と「生きる喜び」という光へと姿が変容した。

 

う~ん、みにくいアヒルの子 ?

それとも蓮の花の理論でしょうか。

 

わさわざ対極にある状況に身を起き、真実の光を取り戻すためにとことん遠回りをする。

 

やだ~、こんな屈折したゲーム。

 

けれどそれが私の選んだシナリオだったのです。

 

もちろんここで便宜的に「フェイクパートナー」としている「禁欲主義」と「自己犠牲」は悪いものではなく、きちんと意味のあるもの、価値のあるものです。

その価値そのものは「希望」と「生きる喜び」と同等です。

 

ただし大きな違いは、前者が不安のエネルギーで輝いているのに対し、後者はさらに微細なキラキラとした愛のエネルギーで輝いているということなのかもしれませんね。

 

どれも私の大切な一部、愛おしいパーツであることに変わりはありません。

 

いずれにしても、このプロセスはホメオスタシスを実証するためだったのではないでしょうか。

 

ホメオスタシスとは恒常性維持機能と言われ、その生命体の状態を一定に保とうとする生体的働きのことを言います。一般的に「自然治癒力」という言葉であらわされる聖なる神秘の力も、このホメオスタシスの実現ツールと考えてよいかもしれません。

 

例えば私たちが熱を出します。

これはこのホメオスタシスのあらわれ、自然治癒力のあらわれです。

 

元に戻ろうとするために「発熱」という身体的作用が起きているわけですから、発熱自体悪いものではありません。

 

心にもこの「自然治癒力」があるというのが私の考え方です。

心がウツに傾きかけた。けれどそれが元に戻るための機能はきちんと授けられている。

 

 

 ※ウツに傾きかけた、という状態と 「うつ病の診断を受けた」 状態とを一緒にすることには

  無理があると思います。

  ただし、本当にうつ病なのか、その基準は実は流動的なのかもしれません。

 

 

確か、重篤な症状の病気を克服できる人は、強い自然治癒力に支えられている、という考え方があるはずです。

その強い自然治癒力を実証するそのために、潜在意識が重篤な病気になることを選んだ、魂の選択ですね。

 

私 (の潜在意識、深層心理、おそらく魂) が「絶望」「失望」にドップリとつかるために「禁欲主義」「自己犠牲」という状態を選んだのは、逆に言うと「希望」と「生きる喜び」を誰よりも強く感じたかったからなのではないでしょうか。

 

私のハートってすごいマゾ、だと今なら笑えますね。

自虐的という意味ではサドでもあるのかも。

 

自分で自分を痛めつけるような選択をしたともとれるわけです。

 

「サド」と「マゾ」のエネルギーは表裏一体。どちらが良い、悪いではなく、何かのバランスでどちらにでも傾くということでしょう。そしておそらく誰にでもある感情です。

 

さてさて、そんな状況の中で顔を出し始めてくれた「エネルギーの反転」。

きのうは節分、きょうは立春、このタイミングで起きているそのことに意味があるのかもしれません。

 

そういえば、きょうはじめて心理学者のカール・ユングについての情報検索のタイミングが訪れました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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