桜林への日参

この季節には毎日桜林、桜並木に日参する癖がついています。

 

この癖が始まったのは2014年のこと。

天国に還った愛猫・海・かいが「お話し会」というメッセージをくれたその年の春のことです。

 

この「お話し会」のメッセージが後に私の【至福のレシピ~わ・カウンセリング】のスタートとなるわけですが、その年からこの季節には毎日毎日、時に日に何回も桜林に足を運ぶようになりました。

4年前のあの日、不思議な出来事が起こりました。

 

桜の木のそばで、ちっちゃな妖精なのか、精霊なのか、そして幻なのか、そのいずれもが正解でそのいずれもが不正解の存在に遭遇しました。

ちっちゃなちっちゃな、虫のような精霊。

 

人間の形はしていません、言葉を伝えて来たわけでもありません、ほんの数秒、私の目の前にあらわれて、一般的には「神秘体験」と呼ばれるものなのかもしれません。羽根のついた生き物でした、けれど虫ではないのです。

 

以来、あの桜林には精霊がいて、時に人間の前にあらわれてはコミュニケーションをとりたがっているのではないかとそんな気がして、なので「日参」しています。

 

昨年の春、太極拳の先生と偶然そこでご一緒する機会があって、先生にそのことをお話したら、「私も逢いたいんですけど、一度も逢えないんですよ、精霊さん」と言ってくださって、やっぱり先生とはなにか、縁があるのね、と嬉しくなったものです。

 

その先生が昨年の9月に突然倒れ、以来先生にお逢いすることもできなくなってしまって、大好きだった太極拳のレッスンが一時「フェイドアウト」状態の危機に。

 

今年も桜の季節だな、と思うと自然にあの、先生と座ってお話したあの席に足が向いている自分がいることに気づきます。

 

先生がどんなご様子なのか、情報は一切入って来ていないので、先生のご迷惑にならないように、愛のエネルギー・ボールだけ何回か送らせてもらっています。

 

先生にとって最高最善の状態でありますように、との思いです。

 

あの、おそらく桜の精霊はものすごくちっちゃくて、背の小さい私だから見えたというか。私は背の小さいことにものすごいコンプレックスがあって、それは深層心理の部分、でも背が小さいということは背の高い人より地面に近いんだよ、地面に近い生き物との距離が短いんだよ、とそんなメッセージをもらえた気分になっていました。

 

だから動物君とも距離は近い。

 

私の背のちっちゃさにもきちんと意味がある、ということをあの精霊は教えてくれたんじゃないかと思うんです。

 

毎年、桜の季節に日参し続けるのは、あの精霊にまた逢えるかな、と期待してのこと。

その後、何回か遭遇できた感覚は味わえたけれど、あの時の静寂と清冽な感覚は蘇りません。一期一会でのプレゼントだったのかもしれませんね。

 

けれど見えなくてもあそこにたくさんの精霊が潜んでいることは確かです。桜の花が散っても私は日参しているだろうな。そのたびに太極拳の先生に思いをはせるのです、きっと。

 

そう言えば、今月から新たな先生の太極拳レッスンが始まります、型が少しことなるようなので一からのレッスンです。でも身体にしみこんでいる太極拳マインドのようなものはきっとまだ生きていて、何回か教わればきっと自然に身体が反応してくれるだろうと思っています。

 

太極拳のあの先生の、良い「生き霊」が飛んで来てサポートしてくれるかもしれません。

 

私たちは想いを馳せるだけで、そのお相手とエネルギーが繋がってしまう、という説があります。

意識にはポジティブとネガティブがありますね。ポジティブだけが良い、ということはなくて、けれど程よいポジティブは「好き」という想いもかねているんだとか。

 

程よい、がポイントです、過度なポジティブには弊害があるらしいことが、心理学の現場ではわかりつつあるようです。

フォーカスしすぎると必ずバランスが崩れる。

この鉄則は誰の日常にも息づいています。

 

ほどほど、良い塩梅。

 

何年も言い続けて来たこれらの言葉は、私の中から出た言葉であると同時に宇宙からのプレゼントなのかもしれません。

 

実はあの精霊らしき存在の正体がわかりつつあります。多分、なんですけど、私がカウンセリング・セッションを始めるにあたって、ある守護ガイドさん的存在との縁が繋がった、そのサインだったみたいなんです。

 

はい、またも妄想モードです(笑)。

 

守護ガイドさん、というのはどなたにもついているらしいですよ。

 

けれどそれを意識し過ぎると、何か異なるエネルギーも飛んで来てしまうみたい。「邪心」「慢心」の正体はそれなのかもしれません。

 

ですのでガイドさんのサポートはありがたくちょうだいしながら、けれどそれは自然な流れであって、特別なものではない、それが当たり前なんだ、と良い意味での「当たり前」を認識しながら「感謝」していくのがいいような気がしています。

 

すべて「自然」、すべて「必然」。

その視点はどうやらあちららしいんですもの。

 

私の住んでいる街は埋め立て地で、一般にはあまりエネルギーが良くないのでは、とされるようなところです。けれど市が桜の街を作りたくて、そこいらじゅうに桜を植えたんだとか。土はあまり良くなくても桜はきちんと根付いてくれました。

そして精霊もいます、確かに。

 

私はこの街が大好きです。私にとってのパワー・スポットはこの街全体。「海」の地名のつく、このわが町が私の魂の聖地なのかもしれません。

 

 

 

※追記

 

きょうは桜吹雪のお花見でした。桜ってすごいな、素敵だな、と感じる瞬間。咲いたら散る。その当たり前のことをしっかりハッキリ見せてくれる桜に脱帽です。

 

私たちの命も同じ。誕生があれば必ず旅立ち・喪失を伴います。けれどそれは宇宙からみればただの変化のポイントに過ぎません。

 

桜の花は散っても桜そのものの命がなくなるわけではありません。

 

目に視えるものだけが花ではない、ということなのかもしれませんね。

 

毎年ながら、桜の潔さには、「アッパレ」、あっぱれって「天晴れ」と書くんですね、納得。

 

 

 

 

 

 

 

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