女性性に対するジェラシー

ジェラシー。

 

きょう突然わいて来た意識です、言葉の概念として。

 

私たちは誰しもジェラシーの感情を抱いています。

その対象が固定されている場合もあれば、まったく流動的な場合もあります。

 

そもそも私たちはおそらく、ですが創造主や宇宙の源にジェラシーを感じているのではないでしょうか。

「なんて畏れ多いことを。創造主や宇宙の源には畏敬の念しかないわ」

たいていの方はそう反論されるかもしれませんね。

 

それが顕在意識。

けれど潜在意識にはすべての意識の概念が存在するため、仮に創造主に対するジェラシーの感情があったとしても、その価値は畏敬と同等です。

 

つまり畏敬の念であってもジェラシーであっても、この宇宙においては同じだけ意味がある、価値がある感情なのです。

 

顕在意識で物事を認識する習慣のついている私たちにはなかなか理解しづらい考え方ですね。

 

私たちはいつも優劣だとか上下だとか善悪だとか、二元性の世界で考えることに慣れ過ぎて、他の感覚はなかなか受け容れがたい状況になっていますから。

 

さてジェラシー、なんですが、

無条件の愛とも同等の価値があります、

希望とも同等の価値があります、

慈しみ、光、調和、

 

まだまだありますが、それら一般的に「ポジティブ」とされている感情や状態と同価値です、宇宙において。

 

まずそのことを理解できるか、それを腑に落とせるか、そんなレッスンが私たちには必要かもしれません。

その次にジェラシーという感情が誰にでもある感情で、誰一人例外はないと認識できるようになるレッスンも必要でしょうか。

さらに自分が長い間抑圧し続けて来てしまった感情であることを認識するレッスンも必要かも。

 

そして自分の中に確かにドロドロのジェラシーエネルギーが潜んでいることを認めて受け容れるレッスンが必要になるのでしょう。

 

そうなった時やっと自分自身の統合の一部が進んでくれます。

やっと自分のあるがままに近づくことができます。

 

それでも完成形ではありません、そこで終了ではありません。

さまざまな感情を感じつくす、その行為、ワークは一生続きます。

 

それが私たち人間の定めです、肉体をもっているということはそういうことです。逆の言い方をすると、さまざまな感情を感じつくす醍醐味を与えられているのが、私たちの人生なのかもしれません。

 

きょう、さまざまなシーンで感じているだろう「ジェラシー」を思い浮かべてみました。ここに書き出すとエンドレスになりそうなくらい私たちは「ジェラシー」と共に生きている、という事実がクッキリと浮かんできました。

 

そして今、瞑想をしていたら。

 

「女性性に対するジェラシー」という意識が浮かんできました。これは男性性が女性性にジェラシーを感じている、という集合意識のあらわれではないでしょうか。

 

男尊女卑という考え方は男性が考え出した概念です。ある説によると、その大元は、地母神信仰と呼ばれるいわば女神信仰に対するジェラシーがスタートだとされています。

 

さらに言うと、どうやら男性はそもそも女性に対して畏怖の念があったらしいのです。

どうやって背伸びをしても女性の肉体的機能には及ばない、その劣等感がベースになっているんだとか。

畏敬ではなく畏怖。

 

性差という言葉がありますが、性の区別はあっても差別意識は本来存在していたんでしょうか。

どの時点でそれが肥大化したのでしょうか。

 

と、この辺のお話を掘り下げると大変なことになってしまいそうです。

 

乱暴にまとめてしまうと、そもそも今の父権宗教のベースはどう考えても「女性性に対するジェラシー」がスタートだと思えてしまうのは私だけではないかもしれません。

 

仮にこの考え方が真理だとして、すると世界にはものすごい量の「女性性に対するジェラシー」エネルギーが渦巻いていることになりませんか。

 

それが集合意識の正体です、脈々と受け継がれた「男尊女卑」の概念とその意識エネルギー。「男尊女卑」の世の中を変えたいと思ったら、まずこの真実を認めて受け容れることが必要です。

「女性性に対するジェラシー」というエネルギーをしっかりと自分のものとして落とし込むことが必要なのでしょう。

 

ジェラシーは一般には「良くないもの」としてはじかれ、拒絶され、排除されるべきものとして捉えられています。

その結果、どんどんジェラシーのエネルギーが肥大化して地球上にまん延してしまう、というのがこの宇宙におけるエネルギーの仕組みです。

 

ジェラシー。

 

少しずつ認めていきたい、抱きしめていきたい「感情」の筆頭なのかもしれませんね。

 

こんな風に、今まで良くないもの、恥ずかしいもの、醜いものとして、見てみないフリをしてきた感情にこそ、慈しむというビッグ・チャンスが隠されています。

 

このように少し視点を変えると、今までの生き方の根底から覆されるような考え方がすぅっと浮かびあがってきます。

 

それをすることによって私たちは得をするのでしょうか、損をするのでしょうか。

得も損も同等、同価値ですから、どちらを選ぶかは個人の自由です。

 

私は得をしたい(笑)タイプなので、どんどんオセロの反転、コインの反転続けます。

まずは「女性性に対するジェラシー」から。

 

ジェラシーって表現を変えると「憧れ」とも取れるかもしれません。そうだとしたら案外「良い」イメージに変わってきませんか。「女性性に対する憧れ」がほんの少しヘソを曲げたら「ジェラシー」に変わった、というような感覚かもしれませんから。

 

実は「ドロドロ」をイメージされる感情の多くは、ほんの少しの違いでコインの裏表での表情が変わってくるものなのかもしれません。

「ドロドロ」だって本当は悪いだけのものではないはずですものね。

 

「良い」「悪い」だけの視点は少しずつ手放していけそうな気がしませんか。それよりも抱きしめる喜びを感じたい。

 

どんな感情も私の一部だから。

 

 

 

 

 

 

 

 

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