5月5日、エネルギーが変わりました

※ 当エッセイは昨日アップ予定が間に合わず5月6日、本日アップとなりました

 

謝謝と再見。

 

きのうこのお話をさせてもらったお蔭でしょうか、きょうは大きくエネルギーが変わっていることを感じます。

 

実は先日、大切な友人が天国に還りました。と言っても彼女にとっての晩年4年間は、私たちは没交渉。その間、どちらかというとお互い意識内での対立を抱えるご縁だったのかもしれません。

 

彼女の旅立ちも知人を介して伝わって来たもので、それでもやはり耳に入ったということは、彼女とは縁が深かったのだろうと感じています。

 

私は人との死別に関して、自分で言うのもなんですが綺麗な表現をするのが得意な方です。今回は割とベタッとした表現をします。それが今の私の正直な気持ちだからです。そして今の正直な気持ちを言葉にすることが彼女に対する弔いだと感じているからです。

 

取り繕った表面的な言葉は、今の二人には必要ありません。むしろそれは彼女の旅立ちの意味から目を背けることに繋がりかねないと感じています。

 

彼女に対して思うことはたくさんあり、そしてその思う内容は日に日に変わっていき、一時は彼女の闇しか感じられなかった状況ですが、昨日やっと「再見」と伝えることで彼女自身のエネルギーが大きく変わったことを感じました。

 

他人はすべて神様の「マター」なのです。神様がその人を使って私たちにメッセージを伝えている。

そのメッセージを「愛」のフィルターでキャッチすることができるかどうか、私たちの人生にはそんなお試し感覚が含まれているような気がしています。

 

すべて、自分自身の学びの種、として。

 

もし誰かに対して「憎しみ」の感情が浮かんできたとしたら、それを退けるのではなく、きちんと「憎しみ」を自分と同化させることが大切です。

 

自分の闇の感情を視なかったことにする「ポジティブ・シンキング」は少なくともすべての問題の解決にはつながりません、あくまでも対象療法です、もちろん対症療法のすべてが悪いわけではありません。が対象療法によって痛みが緩和された状態を本当の自分だと思うことは、自分自身との乖離に繋がり、結果さらなる課題を創り出す可能性が大きい、という一つの真理だろう側面をたいていの専門家は伝えていません。

 

そのため専門家自身が自滅していくことは少なくありません。

 

私も数年間「ポジティブ・シンキング」を実践していました、この「ポジティブ・シンキング」は

単にポジティブに意識を向ける、ということではなく、常にポジティブだけをみて、ネガティブをないものにしようとする考え方です。表現を変えると、自分のあるがままに目をつぶり、いつも少し大きな自分であろうとする「焦り」を含んだ価値観です。

 

私の友人のケースはまったくそれでした。

そしてその可能性は誰にでもあって、彼女と反目し合うほど似ていた私も、何かの流れでまちがいなく自滅の道をたどる可能性がある、という事実に気づきました。

 

自滅もまた悪いことではなくきちんと意味のあること、どうやら彼女の場合はそれを身をもって人に知らしめるというお役目を果たしてくれた、ということのようです。

 

自滅とは自分を失う・喪うこと、自分をこの世から抹殺することに他なりません。

自分を生きるために授かったこの命を生かしきれないまま、一生を終えることです。

別の視方をすると、自身を尊重し、畏敬の念を抱いて生きるために、時に人は自滅とのアンバランスを体感する機会を必要としているのかもしれません。

 

人には希死念慮というものが潜んでいるらしく、誰もが潜在意識の中で「自死」を望んでいるようです。

 

そんなこととはまったく気づくこともなく。

 

なぜ「自死」を望んでいるのか。

それはあちらの世界が「真実」だと。今のこちらの世界では源と分離された状態にあると感じているからだと。

早く源に戻りたいと願う、それが「希死念慮」の根本概念だと。

 

そんなことに数日前に気づいたばかり。

 

そして本当にあちらの世界に還っていく魂と、こちらの世界にいながら「自死」に近い状態を選ぶ魂とがあるようです。

 

彼女の場合は前者、そして私は後者、だったようで、そのエネルギーは「表裏一体」。

たまたま今生ではそういう選択をしたけれど、過去生、あるいは来世では、真逆の選択をしていた、あるいはする可能性があるということ。

 

それでも私は「今」を生きることしかできません。

いえ、「生きろ」と彼女は強い意識をもって私に伝えて来てくれているようです。

 

彼女と私のご縁については、こんな内容では語りきれないほど、グショグショで、その一方、ものすごく共鳴のエリアも広く、広い意味でいうところの「ソウル・メイト」の筆頭だったのだろうと感じています。

 

ソウル・メイトの解釈は人それぞれです。

考えようによっては、すべての「他人」がソウル・メイトのような気もします。

その中でその関係性に序列をつけるのではなく、あくまでも縁の深さという意味では、結構な深さの友人だったのだろうと。

 

彼女の旅立ちによって、はじめてそのことがストンと腑に落ちました。

 

彼女にはもちろん光もたくさんありました、その一方で深すぎる闇も抱えていました。

その闇から目を背けていたことが彼女の今回の旅立ちの状況にあらわれていました。

 

私はこれから彼女の闇を一つずつ自分の中に取り込み、真の光に転じていけるようにすることを求められているようです。自分自身のこととして光と闇のバランスを整えていく、というように。

 

魂の友人って、かなりヘビーな関係であることは確かです。

けれど私たちは必ず魂の友人を複数持ち、さらに自分自身も相手にとって魂の友人であるわけで、

その事実を受け容れることがすべてのスタートになるのかもしれません。

 

私たちは肉体を持った存在であると同時に、その大元は肉体のない光の存在です。

光としての自分には必ず闇がついて回ります、光と闇、で一つの光だからです。

 

再見。

 

この言葉が彼女を本来あるべきところに戻してくれました、彼女自身の意識も私自身の意識も癒してくれたのです。

 

はじめに言葉ありき、でしょうか、はじめに意識ありき、でしょうか。おそらく「またいつか逢おうね」の意識が「再見」という言葉に繋がったのではないでしょうか。

 

いずれにしてもやっと光としての彼女に出逢うことができました。

 

私はまだまだこちらの世界で肉体を持って生きていこうと思います。

エネルギーが変わったのは、私の意識が変わったから。

 

私は自分自身に目をつぶらないで生きていく。そうかたく決心しました。「希死念慮」はあるとしても、その事実もきちんと受け容れて、その上でしっかりと生きる、という生き方の選択です。むしろ「希死念慮」があるからこそ「いかに良く生きるか」を学ぶチャンスへと繋がっていくのかもしれません。

 

5という数字には「変容」の意味があると言われています。

5月5日、ダブルでの変容、タダモノではないだろう変容の予感がしています。

 

亡き友人は、私との関係はツイン・ソウルだと言っていたこともありました。

私の感覚ではツインではないと感じています、ことの真偽はわかりません、ただお互い似すぎている点が多すぎて、お互いにそれを受け容れることができなかった。

 

今、はっきりと思います、私は彼女が大嫌いになった時があること。

そして大好きだった時があること。

 

好きも嫌いも「表裏一体」。

 

きっと彼女も同じ想いだったのでしょうね。

 

好きも嫌いも同じ価値。

 

そんな認識を持ったことは一度もないのですが、私はどうやら「生」に執着している魂のようです。

彼女もまた「生」に執着するあまり、自滅の道を選んだのかもしれません。

 

すべて「運命」として。

 

「宿命」は変えられないけれど「運命」は変えられる、と聞いたことがあります。

けれど魂の契約は決まっているはず。

 

むずかしい概念です、そんなことを考え出したら頭がパツパツになってしまう。

 

彼女と同じように私も頭を使いすぎる傾向にある魂のようです。

頭をリラックスさせる方向で運命を切り開いていこうと思います。

 

自分自身を見失うことがないように。

自分と共に生きられるように。

 

私は両親、兄を突然死という形で喪いました、死生観に関して大きな学びを求められている魂のような気がします。

 

その学びが完結したわけではありませんが、今回は大きく進歩させてもらえたのかもしれません。

突然旅立った魂の友の存在によって。

 

彼女の旅立ちもまた「突然死」だったようです。

最期の瞬間まで、意識と肉体がハッキリしていたのですね、きっと。

そのことこそ彼女の喜びだったと信じたい。

彼女は生きる誇りの中で旅立ったのだと。

 

5月の嵐を「メイ・ストーム」と呼ぶそうですね。

なぜか、この言葉にハートが響きます。

 

私の最愛の愛猫・海・かいの旅立ちも5月でした。

 

5月10日、もう間もなく、海・かいの命の日。

海・かいのことですから、あちらの世界で彼女を思い切りハグしたんだろうと思います。

 

大切な時間を共に生きてくれた魂の友人へ。謝謝、そして再見。

 

まるで女子高生のようにお互い仕事そっちのけで長電話をしまくっていたあの数年間、

本当に楽しかったね。

没交渉の4年間も、きちんと意味があったのだと、やっとそう思える私にたどり着くことができました。

 

それもあなたとのご縁のお蔭なのでしょう。お互い不器用な魂。でもその不器用さがあったからこそ楽しかったこともあるのかもしれません。不器用ならではのがむしゃらさ。お互いの魂が愛おしくてたまりません。光となってあらわれた側面はまったく異なるものだったとしても。

 

魂の友、神様のマター。

マターは目上の存在には使わないというビジネス原則をあえて無視して。

 

この意味、おわかりいただけますか ?

神様と人間の関係は実は「縦」ではなく「横」なんだ、という意味合いが込められているのではないでしょうか。私の潜在意識の中から浮かんできている事実。

 

実はこのエッセイは何回印刷しようとしてもプリンターがうまく作動しませんでした。

結果、何十枚もの紙を無駄にしました。

 

紙を無駄、私の思いを昇華させるための計らいでしょうか、「神」との関わりに関係がありそうな気がしています。

 

何十回もプリント・アウトに失敗し、今、やっとOK ! が出たようで、ものすごく綺麗なエネルギーが流れました、私の中に。

 

エネルギーと共に、エネルギーの一部として肉体のある時間を思う存分楽しむ。

 

それがこれからの私の人生の喜びに繋がるのでしょう。

 

当エッセイ、なんだか書かされているところが多い(笑)。

これこそが「ひかりのしずく」の意味なのですね、きっと。

 

 

 

 

※追記

 

ほんの少し修正を加えようとパソコンを開いたその時間が「1111」でした。

 

 

 

 

 

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