自分の中に愛の種を植える

自己犠牲。

 

ここのところの私の大きなテーマのようです、何回もこの言葉が浮かんできます。

 

自分を犠牲にしなければ愛を得られない。

どうやらこれが根底にあるらしい。

 

ということは ?

 

愛を外に求めているのですよね、この考え方だと。

 

愛を外に求める = 分離意識。

愛を内に求める = 統合意識、あるいは一体化。

 

いずれにしても私たちは愛されたくて仕方ない生き物だということ。

それを得るために自分を犠牲にする。

それを得るために自分を大切にする。

 

分離意識を膨らませるのはどちら ?

一体感を深めるのはどちら ?

 

自己犠牲は愛の代替行為だということになりませんか。

ということは私たちは自己犠牲に依存しているのです、愛の代わりに。

 

まずは私たちは自己犠牲に依存している、という事実を受け容れます。

自己犠牲の代わりに、何か別の愛の代替対象を探します。

自己犠牲は、自己否定の感情がベースです。

自己肯定の感情をベースにして考えてみると。

 

そう、自分を慈しむ、愛する、ということに置き換えられるのではないでしょうか。目いっぱい自分の内に目を向けるのです。

 

つまり、私たちは愛に飢えて、愛を渇望しづけける生き物だという大前提を認め、受け容れます、

自分の一部として。

 

その愛を外に求めるのではなく内に求める方法を自分で模索します。

 

愛が欲しいのなら自分自身の中に愛の種を植えればいいのではないでしょうか。

「私のこと大好き、私のこともっともっと大切にしたい」、そんな愛の種。

 

なるほど、自己犠牲というのは、実は淋しさの裏返しの感情で、淋しいよ、淋しいよ、と声に出せない自分をごまかす感情でもあるのですね。

 

私は淋しいんだ、ものすごく淋しがり屋なんだ。

 

そんな自分を思いっきり抱きしめて、いっぱいいっぱい自分に話しかけて、いっぱいいっぱいお世話をしてあげてみるのはいかがでしょうか。

 

自己犠牲、おそらく私個人の意識であると同時に「集合意識」でもあるはずです。

「集合意識」はあなたの中にも潜んでいる感情たちです、あなた自身がそう感じているのか、あるいは過去生のあなたが感じた意識の残像か。

 

それらを大事にケアすることが結果、自分自身を育むことに繋がります。

 

ガチガチに固まった自己犠牲のエネルギーが少しずつ緩み始めているみたいですよ。気長に、やさしく向き合っていきませんか。なぜなら、それも私たちの大切な一部だから。この地球の大切な一部だから。

 

そうすると自然に男性性・女性性の統合が図られるような気がするんです。

 

地球の調律は自分自身の調律から、ですものね。調和のハーモニーを奏でられるその日はもしかしたらすぐそこまで来ているのかもしれません。

 

 

 

※  追記

 

母性の強い人ほど自己犠牲を自分に強いる傾向が強くなる場合があります。

 

愛したい、お世話したい、という感情の裏には愛されたい、お世話されたいという潜在意識、深層心理が隠されています。

 

そのニーズを満たしてあげると母性と父性のバランスが整いやすくなります、女性性・男性性のパバランス、ですね。

 

すべてはバランス。

 

 

 

 

 

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