視えない世界からの帰還

当エッセイを書き始めて、記事数100を超え、最初の頃より更新頻度も上がりつつある現実。

 

少し冷静に客観的に当エッセイの中でのことを検証してみました。

 

当エッセイをかきはじめた一つの理由は、視えない世界のことを思い切り言葉にしてみたいと感じたことです。

 

私はスピリチュアルが大好きです。けれど私が感じている「スピリチュアル」と世に浸透している「スピリチュアル」とはどうも趣が違う。

もちろん接点もあります、同時にどこまで行っても平行線のようなところもあります。

 

 

※ 当エッセイで再三お話しています、本来「スピリチュアル」ではなく

  「スビリチュアリティ」が私の思う「視えない世界」のことです。

  

 

 

書物も読みました。

シックリくるものもあればまったく、というものもありました。

 

私はおそらく「哲学」脳なんだろうとなんとなくそんな気がしはじめていました。

 

哲学というのは、その時その時で自分自身の「真理」が異なり、一生かけてそれらを探求していくものです。

 

自分の頭に浮かんで来たこと、それは顕在意識ではなく、深層心理と呼ばれる潜在意識から浮かびあがってくる真実たち。

 

それを徹底検証することが私の喜びなのだろうと感じていました。

 

スピリチュアルは日常的なモノであって特別なものではありません。

ところがスピリチュアルを特別視する意識の流れが強すぎて、私自身もどこを目指せばいいのかわからなくなっていました。

スピリチュアルを特別視することはスピリチュアル・エゴに繋がり、エゴは悪いものではないのですが、本来の霊性進化とはまったく異なる方向に向いてしまうことになるからです。

 

ところがそれもまた「誤り」だとたった今気づきました。

 

私たちは「体験」をするためにこの世に生を授かっています。

「体験」に良いも悪いもなく、また優劣もない。

 

つまりスピリチュアル・エゴという状態もまた体験の一つに他ならないということです。

 

こうして言葉で自分の考えていることを表現していくことはグラウンディング作業の一つに他なりません。

 

・自分の頭を整理する

 

という意味では瞑想と同じ作用をもたらしてくれます。

 

グラウンディングをする、とは文字通り地に足をつけること。

その地とは、すなわち自分自身の源と繋がること。

 

さきほど当エッセイを書こうと思った時点での内容とここまで書いて来た内容はすでに大きな開きが生まれています。

 

そう、書くだけで私の脳は哲学してしまっているのです。

 

私は何かテーマを定めて、それについて考察していく「コラム」という形より、想いのままにつらつらとしたためていく「エッセイ」の方が自分には合っていると感じています。

 

コラムはある意味制限を付ける考え方。

エッセイは制限を外す考え方。

 

なるほど、私は自分自身の制限を外すために当エッセイシリーズを続けてきたのです。

 

いわばセルフ・メンテ、あるいは自己管理のため、でもあったのですね、当エッセイ『ひかりのしずく』の執筆は。

 

誰かに読んでもらうため、というより自分自身との距離を縮めるため、が当エッセイ執筆の大きな目的だったということが明確になりました。

 

私は死にたくありません、まだまだやりたいことがたくさんあります。

 

死は、死の瞬間は必ずやってきますし、その時には「ああ、やっとこの時が来た」となんともいえぬ恍惚感のようなものに包まれるのかもしれません。

 

けれど三次元的にまだまだやりたいことがたくさんあるのです。

 

視えない世界は、あたり前の現実のうちの一つです。

それを特別視する段階を経たからこそ、リアルな現実として目に視えない世界と繋がりながら、それでもこの肉体としての要望を満たしてあげたい、満たしていこうとそう、決心しました。

 

先月義父の葬儀に参列して、人が旅立つと、遺された人は瞬時にしてその人の生き方を「美化」する、という事実に明確に気づかせてもらいました。

 

決してリアルではないその人の一生が形づくられてしまうのです。遺された人によって。

 

歴史的史実を探ればイエス・キリストも仏陀も彼らの言葉、彼らの考えではないものの象徴として時に遺された人々の「神格化」という創造力をもって新たな「キリスト像」「仏陀像」が作られているのと同じことが私たち一人一人の死に関して生まれてしまう。

 

それは遺された人々の「自己否定」の想いが投影された,ゆがんだ事実に他なりません。

そのゆがんだ事実が歴史を彩っているのです、すべてのシーンにおいて。

 

そのゆがんだ事実が折り重ねられて、この地球が彩られているのです。

 

私が今、旅立ったとしたら、阿部佐智子という作家は、ペットや女性のごはんに対して真剣に向き合った生活者だったという像が残るのでしょう、人々の心に。

 

それは私のほんの一部です、むしろ、ごはんに対して私は「適当」が「適切」だと感じているので、拙著の理論は私のものというより、あくまでも編集者さんの理論であることがおわかりいただけるかもしれません。

 

つまり拙著は制限付きのコラムの拡大版。

もちろん拙著での理論には絶対の自信をもっています。

絶対というのは100%という意味ではなく、自分自身におけるウソはないという意味です。

 

制限を外すと私の意識はもっと広がってしまいますが、制限がある中での理論としてはウソはない、という意味です。

 

この世で肉体として生きるためには、制限が必要な時もあります。けれど制限を外したい時もあります。

 

その制限と上手に付き合うための当エッセイ・シリーズなのだと今、やっとわかりました。

 

私の魂は自由の象徴ともいうべき魂です。

その自由を感じきるために、私は思い切り自分自身に制限をかける、という魂のストーリーを抱きしめ続けてきました。

 

そろそろその反転が現実的なものになる、というストーリーも兼ね合わせて。

 

視えない世界をあえて「視えない」として「視える」世界と区別している時点で何らかの特別意識が生まれています。

 

男女、とわけている時点でどちらかに優越感が生まれるように。

同時にどちらかに劣等感が生まれるように。

 

特別もまた普通であり、普通もまた特別であり、そんなこともどうでもよくなって、ただ自分の人生の喜びを探求したい、感じつくしたい。

 

すべてが「〇」に繋がるように。

すべてが「〇」と感じられるように。

 

自分の中の「〇」がこの地球の歴史として刻まれるように。

 

「〇」としてのささやかな抵抗こそ、私の生きた証となるのでしょうから。

肉体をもっているということは、軋轢が生まれるということ、他者との間においても、また自己との間においても。

 

その軋轢を思い切り楽しむことが私たちの生存欲求に力を与えるのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

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