「ああはなりたくない」

以前反面教師についてお話したことがあります、「いやな人、ああはなりたくないよね」という、その対象人物について。

 

私にも「ああはなりたくない」人がいます。

一番近いところだとお姑さんかな。笑

 

これはスピ的に「自分のいやなところを見せてくれているありがたい対象」と思うことができても、なんというか心情的なのか、宿命でもあるのか、やはり「ああはなりたくない」と思ってしまうわけで、「嫁姑の対決」は永遠の課題ですね、現実的課題。

 

ところがふと気づいたのは、私のことも「ああはなりたくない」という想いで視ている人はたくさんいるんだろうな、と。

 

私は幼い頃から「いかに人に愛されるか」に固執して来たようなところがあるんですが、どんなに一生懸命生きようがどんなに誠実に真摯に生きようが、私の生きざまを「嫌だ」「不快だ」と感じる人はいるんだ、とその現実がストンと腑に落ちてきました。

 

私たちは他者から愛されたい、認められたいという承認欲求が備わっています。

ですから愛されなかった事実を感じ取ると、ものすごくショックを受けて、ともすれば愛してくれない相手に恨みの感情を抱いてしまう場合もあります、無意識のうちに。

 

でもそもそもすべての人が自分を愛してくれる訳もなく、中にはトコトン毛嫌いする人もいる。

 

それが現実だと気づいてしまったら。

 

力が抜けちゃいました、思いっきり。

 

当エッセイを目にして「うんうん、わかる」と感じてくれる方もいれば「何言ってるの、コイツ、ムカツク」と感じる方もいらっしゃるということです。

 

自分の頑張りとは関係のないところの現実。

 

努力したって、どんなに踏ん張ったって万人が私を愛してくれるわけではなく、万人が大好きになってくれるわけでもない。

 

これはどなたにも言えることです。

 

力が抜けませんか、ホッとしませんか。

私はホッとしちゃった。

 

そもそもがそうなら、何もジタバタする必要はないな、って。

 

逆に言うと、万人が私のことを大嫌いになることもないということです、どんなにイヤなヤツとして生きたとしても。

 

相性の問題、好みの問題。

 

自分の価値の問題ではない、ということ。

 

スッキリしました。

 

自分のハートの赴くままに生きて、結果それで「ああはなりたくないよね」という人があらわれたとしても私の人生の価値にはまったく影響なし、ということなんですもの。

 

人生、大いに楽しむべきですね、お互い人の目を気にせず。

 

 

 

 

※ 追記

 

「ああはなりたくない」、実はその根底に流れているのは愛なのではないでしょうか。

 

「ああなりたいな」「ああはなりたくない」は表裏一体。

 

愛のモードが微妙にずれただけの本当はひとつの感情。

 

 

 

 

 

 

 

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