キリスト教的考え方からの卒業

きのうのエッセイ「カミと神」のお蔭みたいです。

 

キリスト教の概念、教えからの卒業というメッセージが浮かんできました。

個人的に、ですのでキリスト教の方を批難する考え方ではありません。

 

私はキリスト教徒ではありません。

がずいぶんとキリスト教の教えのお世話になっていたのだな、と感じました。

 

私が思うキリスト教の教えの中でもこれはずいぶんと私たちの意識に浸透していた、と感じたものは

 

〇 天国と地獄の概念

〇 罪の意識

〇 清貧の教え

〇 天使と悪魔の概念

 

でしょうか。

 

〇 天国と地獄については

 

地獄に堕ちたくないから天国を目指すという考え方が私には備わっていたように感じました。

おそらく、地獄は存在しません、意識の中でしか。

天国というより、みんな同じところに還っていくのだろうと思います。

 

〇 罪の意識

 

罪悪感ですね、トコトンお付き合いしてきたのは。

罪悪感はそれほど必要ではありませんし、一方罪悪感を抱くことのメリットもある、という意識に変わりました。

 

〇 清貧の教え

 

これもまさしく私の真ん中にデンと居座っていたような。笑

清く、が貧しさとセットである必要はなく、貧しければ清いのか、という素朴な疑問が浮かびました。

心が清く、心が豊かで、しかも物質的に豊か、という人はこの世に存在しないのでしょうか。

 

〇 天使と悪魔の概念

 

実はこれが真っ先に引っかかりました。

天使以外はすべて悪魔。

でも悪魔がいるからこそ天使の役割が際立つのでは。

悪魔がみんないけない存在なら、なぜこんなにも存続し続けているのでしょうか。

そもそも悪魔は外から忍び寄るものではなく、自分の心の状態を言うのでは。

 

悪魔の状態に陥っている自分から学ぶべきものはたくさんあるのではないでしょうか。

 

とすれば悪魔もまさしく天使のはず。

 

天使、と目に映るものだけが天使であるのなら、この世に犯罪は存在しないはずだし、それを目にすることもできないはず。

 

まぁ、この辺、宗教的教義とはまったく異なる見解にたどり着いていました。

 

自分だけが正義でそれ以外のものはすべて「悪」であり、「邪」であるのなら、人間は一人ででしか生きていけないことになります。

 

人間には個性というものがあって、その個性がお互いの個性を引き出して成長したり進歩したり、時に退化もあるかもしれないけれど常に「変容」しながら生きている、それが人間というものなら、自分と異なるものがあるからこその自分であって、個だけが別個に単独で存在しているという事実はなりたいないはずです。

 

私たちの細胞と同じ。

 

いろいろ並べてみました、まだまだたくさんあります。

 

そもそもキリスト教って、そのメインに来ている方たちは「白人至上主義」なんだとか。

すべて、ではないですよ、そういう方たちもいる、ということ。

 

「白人至上主義」は言葉を変えれば「カラーズ」たちとの対立意識がベースです。

どうやったって折り合えないという大前提。

 

この地球にはたくさんの人種が備わっていて、もちろん白人もたくさんいて、黒人もたくさんいて、インディアンなどの赤い人と呼ばれる人もたくさんいて、私たち日本人のように黄色人種と呼ばれる人もたくさんいて、もしかしたらここには挙げられていないその他の「色」を持つ人種もいて、そのすべてがお互いに「融合」できるように、と創られているはずなのに、自分以外は排除と言い出したら、いくつ地球があっても足りません。

 

そんなことを一つ一つつぶして言ったら、そっか、今までキリスト教の概念は世界中の人々の心で息づいていて、それによって預かった恩恵ははかりしれないけれど、そろそろ「絶対価値」のような考え方から卒業しても平気だな、ときょう私の意識モードがシフトしました。

 

日大のアメフト事件の監督は、コーチやメンバーからすると「絶対的」権威だったとどこかのニュースで耳にしました。

 

絶対的権威にお世話になった時代、そしてそれをベースにしてそこから一人一人が前に進み始める時代。

 

さて、私たちはどちらも選択できる時代に入りました。

 

もしも絶対神が必要だとしたら、私は自分の中の絶対神に繋がりたいとそう感じています。

 

なぜなら、私たちの中には私たちが生きていくためのツールだったりエネルギーだったり、それを「叡智」と言うのだと思いますが、それがきちんと備わっているからです。

 

そういう命を私たちは選んでこの世に生を授かっている。

外側の「何か」に頼らなくても生きていけるように。

 

もちろん「選択の自由」という叡智も備わっています。

人それぞれ。

みんな、自分仕様ということなのかもしれませんね。

 

当エッセイの書き始めの設定をしようとした時間が「1313」。

キリスト教的には良くないと言われる「13」のダブル。

 

文字通り、キリスト教の考え方卒業の祝福サインだと感じています。

 

ちなみに日本的数霊という捉え方だと。

 

13、1313、共に惑わされず心の中心に芯をもつこと、らしいです。

 

心の中心の「芯」は、神 = カミのことなのではないでしょうか。

 

綺麗に繋がっちゃいました。

 

今までお世話になりました、ありがとう、ここまでたどり着けたのはまぎれもなくあなたの存在があったからこそです、キリスト教の考え方さん。

 

 

 

 

 

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