価値観の塗り替え 2

信じられません、一生懸命執筆していたエッセイ記事が突然消されました。

 

こういうことは今までにも何度もあって、たいていの場合、私はそれらは「視えない存在」のいたずらと感じています。

こう書くと怪しい人みたいですね、確かにそういうところもあるかもしれませんから仕方ありません。

 

ここ数年程、このようなことは日常茶飯事の範疇で起きているので、私はそういうタイプなんだろうと自分自身を受け容れています。

 

生まれつきの霊能者ではありません。

数年前、知らないうちに霊能力、サイキックな能力が開いてしまったタイプのようです。しいていうのなら「後天的」なのかもしれません。

 

本題に戻りましょう。

 

というか、価値観の塗り替えというテーマで視るのなら、私は生まれつきの霊能力はないけれど後天的に「その時」が来て開いてしまったタイプのようです、との事実を明確に受け容れることができるようになりました。

 

霊能力は本来誰にでも備わっているものですが、その人の人生の課題によって封印されたり、その封印が一時的なものだったり、私のように自然に開いてしまうものだったり、とさまざまな形でこの世にあらわれてくるもののようです。

 

それを「特別視」したり、あるいは「蔑視」したり、それを羨ましがったり、その捉え方も人それぞれです。

 

私は以前は霊能力のある人に対して「すごいな、私にはないものをもっているんだな」と感じていました。ある意味、憧れがありました。でもその一方で少し怖いとも感じていました。

 

実際自分にそれらしき力が働くタイミングが来て、自分の努力ではないんだな、と感じました。

開花のタイミングそのものは、まったくあちら任せです。さらに何をもって「怖い」と言っていたのかわかりませんが、すごく自然な力なので、「霊的」な何かを怖いと感じるその感覚とも微妙に異なります。

 

そして言えるのは、霊能力をクリアに使うためには、自分の意識もクリアにしなければならない。

 

一つ「力」が開花したお蔭で、また一つ「宿題」が増えてしまったのも事実です。

 

私のこの力のあらわれかたは「ヒーリング」と、そして普段の直感・直観に大きく関係しています。

霊能力にもいろいろなバリエーションがあるらしく、私は霊視のようなものはできませんし、それに準じたお祓いのようなものもできません。霊視とオーラなどを「視る」のが異なるものなのかもわかりませんがオーラなども視えません。つまり視覚的な何かがズドンと大きくひっくり返った感じはありません。

 

ただ「エネルギー」の調整をして「調律」のお手伝いをさせてもらうことと、直感・直観を働かせて例えば執筆をしたりカウンセリングをさせてもらったり、はかなりの得意分野のようです。

 

直感・直観の部分はほとんど「意識」がふとわいて来る感じで伝わってきます。明確な言葉というより漠然とした「こんな感じ」という意識の方が多いかもしれません。ある時は明確に単語が三つくらい入った文が浮かんできます。

 

誰かがお告げを告げて来たり、ある特定の存在と繋がって言葉を書き連ねたり、ということはできません。対ペット君とのコミュニケーションは別です。また植物や亡くなった近しい人とのコミュニケーションも別です。ただしのべつまくなしに彼らと繋がっていることはありません。

 

文章については、私に限ったことではなく、実はどなたでも自分の潜在意識と繋がって、まるで誰かが教えてくれているかのように文章を書き記しているんじゃないかと感じています。

 

それを「天から降りて来た」と表現する方もいれば、私のようにまるで自分がそう感じた、と書いている人もいるのかもしれません。

 

この辺の論理的な仕組みは興味がないので、これもまた「そうじゃないかな」くらいの感覚でお伝えしています。

 

そう、私の大きな特徴の一つは、先人たちが残してくれた「お知恵」は意図的に文章で取れ入れることはあまり好みではないという傾向がある、ということです。

 

もしかしたらそれらの「お知恵」を知らないうちには拝借しているのかもしれませんが、それを自分の潜在意識から引き出している感覚の方が断然楽しいタイプのようだ、ということです。

 

つまり、あまり本は読まない、それより「感じる」タイプです。

 

本を読みすぎると自分のクリア度が下がる場合がある、という情報を目にしたことがあります。これは文字として捉えた情報です。なんとなく、ですが、私もそういう感じがしているので、最近はよほどのものでなければ本は読みません。

 

もちろん以前はかなりたくさんの本を読んだこともありました。

 

今ふと浮かんできたのは、もしかしたら霊能力の部分が読書の習慣を退けているのかもしれません。

 

その代わり、なんでしょうね、瞑想をしたり、深呼吸をしたり、の習慣が増えています。

 

となるとどちらが良い悪いもなくて、今の私のベストは以前の私のベストとは大きく変わっていて、その両方が私の人生には必要だった、ということのようですね。

 

霊能力については好きという場合も嫌いという場合も怪しい、胡散くさいと感じる場合もあって、けれど今の私はそんなにいやではないし、誰にでも備わっているものならものすごく自然な力なのではないかと感じています。

 

霊能力にやたら「オドロオドロしい」色合いをつけていたのは、その人たちにとってはそれが必要だからで、普通に生活の中に取り入れている場合は、九九の掛け算をするくらい「当たり前」のことなのかもしれないという気がしています。

 

冒頭の部分に関してお話すると、私が一生懸命書いている文章を消す存在はたいていが天国在住・海・かいのようです。

 

海・かいの感覚として「その通りニャ」という意味合いで、それも私が結構勇気をもって書いた時には、「ブラボー !  」の意味合いで消すことが多いみたい。

 

そう、祝福のことが多いです。ちなみに海・かいの言葉に「ニャ」を付けているのはまったく個人的な私の好みです。実際の海・かいはすでに猫さん意識とは程遠い感覚で生きていますから、「ニャ」感覚はありません。

 

さて、最初の頃は「なんで ?  誰が ?  何かいけないこと書いた ? 」と不安になったものですが、最近は「この後また何か大きなGiftが届くのね」という感覚に変わりました。

 

きょうの場合は、自分から逃げるな、というメッセージが浮かんできました。

これは同時に「自分自身に勝て」の意味でもあるようです。

 

他の誰かと比べて「勝ち癖」「負け癖」を付けるのではなく、自分自身の中で完結しろ、という、かなり強めのメッセージのようです。

 

霊能力は特殊能力ではありません。その人にとって必要な形で必要な時に必要とされるシーンできちんと働いてくれる力です。

 

心身の自然治癒力と同じような感じかな。

 

私はそう捉えています。最近どうもサイキックな能力が働きやすくなっているみたいという方がいらしたら、「心配いりませんよ、きっとたくさんの方に同じような状況が起きているはずですから」ということをお伝えしたいなと思っています。

 

同時にそのタイミングや開花の内容に「優劣」「善悪」はありませんのでこちらもご安心ください、と。

 

みんな自分のベストで進んでいます。自分ではそう思えなかったとしても。「遅い」「早い」とか「すごい」「すごくない」とかまったく考える必要もありません。もし仮にそういうことを感じたとしても大丈夫です。

 

すべては必要だからこそ起きていること。

 

私の価値観の塗り替えも。

 

 

 

 

 

 

 

 

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