これは多分集合意識です。
「お金は愛の代わりにはなり得ない」
愛の代わりに何かの対象物を外に求める行為が「依存」体質・気質に繋がります。
愛への飢餓感が膨らみ、それを埋めるための代替行為を「神格化」してそれに「依存」します。
依存と言うと、例えば母子依存などのような人間関係もその一つ。
母、子、共に自立できずにお互いの共依存の中で生きていきます。
そこにダイレクトにお金が関わってくることも少なくありません。
お金の場合、対象物は「モノ」。
お金に依存してもお金から愛や感謝が戻ってくるわけではありません。
もし万が一、愛や感謝が戻ってくるとしても、それはフラットな関係での愛と感謝ではなく、どこかに歪みの生じた愛と感謝です。
お金に依存した人はお金への過度な期待、つまりお金を「神格化」するためのエネルギーをどんどん「お金」に注ぎます。
するとその人は自分の中から+のエネルギーが少なくなります。そのエネルギーは本来自分への愛のために使うもの。
自己愛が少なくなるのです、お金を愛せば愛すほど。
この時の自己愛は良い意味の自己愛、「セルフ・ラブ」です。
「セルフ・ラブ」が上手に行える人はお金との関係も対等になります。良好になります。
一方、「セルフ・ラブ」が苦手な人はお金を上にみて、その関係のバランスが崩れます。
お金が主、自分は従の関係になってしまうのです。
ということは自己評価も適切ではなくなり、自己肯定もままならない状態に陥ります。
逆の言い方をすると自己否定がどんどん強くなって、自分の存在意義も認識しづらくなってしまいます。すると愛への飢餓感がますます増えていきます。
お金との適切な関係。
お金との良好な関係、そのバランス。
それらが整った時、はじめてお金は愛の存在へと変わります。
その人自身、愛の人になれるのです。
自己愛、セルフ・ラブ。
お金よりまずこちらが先です。
お金を神格化したり、否定したり、排除したり、ではありません。
お金の立ち位置と自分の立ち位置を明確にするのです。
お金を必要以上に崇めるのではなく、同時にお金を必要以上に卑しめるのではなく。
そのどちらにもなり得る、という事実を認識して、お金と適切な、良好な横並びの関係を築く。
精神的豊かさと物質的豊かさ、どちらもあっての豊かさです。
心だけ、物質だけ、ではありません。
愛の渇望感がわいて来たら、トコトン自分自身に向き合いましょう。
自分への愛で自分を満たしていきましょう。
愛でいっぱいになった心でお金を使いましょう。お金を受け取りましょう。
いっぱいでなくても自分を愛している何かの実感を感じながら。
お金持ちを特別視するのではなく、貧乏な人を特別視するのではなく、自分に適切なお金の量と質、お金の循環の仕方をみつけていきましょう。
社会的因習に惑わされず。
集合意識は必ず自分の潜在意識ともリンクします。
全体のこと、個のこと。
どちらもあっての私たちです。
地球全体でのお金、個人的なお金。
さて、バランス意識はお金にも必要だ、ということ。
資本主義を批判しすぎる傾向の方、
資本主義を信奉しすぎる傾向の方、
そのどちらも自分自身。
ほどほど、良い塩梅のお金観、探る時が来たようですね。
※ 追記
ここまで書いていたら突然「お金持ちへのジェラシー」というメッセージが浮かんできました。
お金持ちに対する嫉妬。
本来、お金は所有物ではなく、エネルギーを循環するその一つのツールに過ぎません。
お金持ちに対して「いいな、あの人、お金持ちで」という感情を抱きすぎると、それは逆に自分に対する「いやになっちゃうな、私はお金持ちでなくて」という、マイナス方向への願掛けになってしまいます。
そのどちらでも価値は同じなんですが、お金をみんなでシェアして、さらにそれを循環して行くのが私たちのお役目だとしたら、所有意識はそれを停滞させてしまうし、まして自分を否定してしまうし。
せっかくの自己肯定の機会が巡って来ているのですから、お金もうまい具合に循環したい、とそう感じました。
お金、お金とお金を崇拝対象にするのではなく、ただお金とエネルギーを同化させて、スムーズに「受け取り」「手渡し」「受け取り」のわを作っていきたいですね。
無限大マークのようにアッチを向いたりコッチを向いたり、けれど途切れることはなく。
お金との二人三脚、きっとそれは他の人との二人三脚と同じもの。
さらに言うのなら自分自身との二人三脚と同じなのではないでしょうか。
お金と私たち。
水平の関係。
※ 追々記
今、ピラティスのレッスンを受けてきました。
「体幹」の言葉がかなり引っかかります、良い意味で。
身体の幹がしっかりしているということは心の幹もしっかりとするということ。
すると魂レベルでの幹もしっかりするような気がします。
するとお金との関係性や真の豊かさの幹もしっかりするような気がします。
すべてバランス、すべて「中庸」。
何も無い「ゼロ」ではなく、ヤジロベイが示すユラユラ揺らぎのすべて在るところの「真ん中」。
大観、という言葉もあるのですね。
大局を眺めること、の意味だそうです。
大いなる一つの中の何か、その断片だけを視てすべてを視たような気になっているのが今の私たち、そして私なのかもしれません。