ヨーガの先生のお話

ヨーガの先生。

 

行者さんたちに教えている先生に師事している先生です。

 

先生はいつも「各自の座」「人と比べない」という言葉を口にされます。

 

ヨーガにはアーサナと呼ばれる「ポーズ」があるのですが、このポーズに「完成形」はないとのこと。

こうこうこういうスタイルのアーサナを綺麗に模してください、というモノではないんですよ、という意味なんだそうです。

 

人の身体はそれぞれ。

一人一人異なる肉体をもっていて、一つのアーサナでもその人バージョンでしかあり得ない、しかもその人のその時のちょうど良いを各自で探るのがヨーガです、とのこと。

 

私は身体がかたいというコンプレックスをもっていて、他のヨガの先生のレッスンに出ると、どうしても「できない」とか「曲がらない」とかの感覚を味わうことになるのですが、この「ヨーガ」の先生のレッスンだとまったくその手のストレスを感じなくて済みます。

 

どちらが良い悪いではなく、私にとってはヨーガの先生のレッスンの方が気楽だし、リラックス効果も高いのかな、と感じています。

 

さらにふと感じたこと。

 

肉体がそれぞれで感じ方、その表現の仕方もそれぞれなら、それって「こころ」もそうなのでは、ということが浮かんできました。場合によっては「マインド」と呼ばれるものかもしれませんが。

 

Aさんという人の感じ方、意識、捉え方。

Bさんという人の感じ方、意識、捉え方。

 

すべて違ってあたりまえ、逆に言うと同じであることの方が「おかしい」ということになりませんか。

 

だから「人と比べない」。

 

自分はあの人と比べて身体がかたいとか、あの人の意見はおかしくて私の意見が正しいとか、その手の「比較」はまったくいらないんだな、と感じることができました。

 

私たちは幼い頃から必ずと言っていいほど誰かと比較されて生きてきましたし、また意識、考え方、捉え方については「これが正解」みたいなモノを示されて、そこから外れた考え方をしていると「異端」扱いを受けたり、思考の矯正をさせられたり、あるパターンに向けての意識指導のようなモノを受けて来たような気がします。

 

そう感じるのも「私」だけなのかもしれませんけど。

 

人と比べない。

人と競わない。

 

この「基本」をおさえていると、ずいぶんと生きやすくなるかもしれませんよね。

 

より自分らしく。

より自分たれ。

 

というところでしょうか。

 

それがオリジナリティーですね。

それが唯一無二の意味なのかもしれません。

 

それがクリエイティヴィティ、創造性。

 

私たちは一人一人が現実を創り出す「創造主」である、とされているのはそういう意味なのではないでしょうか。

 

ヨーガとは繋ぐ、という意味なんだとか。

 

自分と繋がる、自分の意識と繋がる。

 

なぁんちゃって、ではありますがヨガ歴14年目の気づき。

 

少しは進歩できているのかな。そうだとしたら嬉しいんですけど。

 

身体がかたいコンプレックスももういらないかもしれませんね。

このかたさ、やわらかさが今の私のベストなんですから。

この身体で感じることのできるアーサナに取り組めばいいだけのことかもしれません。

 

理想形ではなく独自性。

 

 

 

 

 

 

 

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