クソ忌々しい 2

前エッセイで、どうやら私は自分のことを「忌まわしく思える不浄な存在だ」と感じていたらしい、その意識が「クソ忌々しい」の言葉と共に浮かび上がって来たようだ、とお話しました。

さらにそれは私個人の意識というだけではなく、おそらく集合想念のようなものだろう、と。

 

さて、不浄の反対は何でしょうか。

一般的には「清浄」だと言われているようです。

 

では「不浄」と繋がる「穢れ」について。

「穢れ」の反対にはどんな言葉があるのでしょうか。

 

かなりいろいろとあるようですが、純真な、清純な、無垢な、清明な、心が透き通るような、という言葉がそれにあたるようです。

 

神道の伝統にあるように「穢れ」とは「氣が枯れた状態」だ、という意味をくみ取ると、清明で氣が満ち満ちたさま、それが「穢れていない」状態の意味になるのかもしれませんね。

 

美しい清流のことでしょうか、それとも純心無垢な赤ちゃんのような状態でしょうか。

 

このように、一つの言葉、それに伴うイメージの裏には必ずそれと相いれない言葉とそのイメージが存在します。

 

西洋思想の場合、それを別々のものとして捉えようとします。

穢れと穢れではない状態は、まったく別もの、という捉え方です。

 

いわゆる天使と悪魔の捉え方と同じものです。

 

一方東洋思想の場合、それをひとまとめにして一つのこととして捉える、という考え方をします。

 

穢れと穢れではない状態は、お互いに足りないものを補って、結果その先に新たな「穢れ意識」のようなものを見い出すという考え方です。

 

天使と悪魔。

悪魔は自分の心に住む悪魔のことなので、それをしっかりと見つめることによって、自分の本来の「天使」を取り戻せる。

 

天使と悪魔を包括した「真天使」のようなものが存在する、という考え方です。

 

ただし西洋思想の人にこの東洋思想を理解してもらうのには大変な苦労が伴います。そのため、科学的にそれらを説明したり、論理的に説明したり、ということが求められます。

 

言うまでもなく、西洋思想と東洋思想に優劣があるわけではなく、視方、視る角度の違いがある、ということなのですが、これがなかなかむずかしい。

 

ともすれば「あなたたちの考え方は間違っていて、私たちの考え方が正しい」という対立の関係に陥ってしまう訳です。

 

私は少し前までかなり「西洋思想」派でした。

小さい時からものごとの白黒をハッキリつけなければ気が済まないタイプで、いわゆる正義感の強い人間だったのです。

 

それはそれで楽しかったのですが、ここ数年考え方が少し変わって来て、東洋思想の傾向が強くなりはじめています。

 

だからと言って「東洋思想が絶対」という考え方にも個人的に、ですが違和感を感じます。ですので「日本は世界のひながたなので特別な国だ」だとか「日本人は特別」としている方の意見は尊重はしますが正直クエスチョンが浮かびます。まちがっているというのではなく私のハートにはなんとなく居心地の悪さが感じられるという意味です。

 

みんな特別だし、同時にみんな普通なんじゃないのかしら、と。

すべてを包括して包み込んで「○」と視るのが日本人の特徴なのではないの ?  と感じるからです。

 

日本人として、良いところも悪いところも含めての「日本人的」であって、良いところだけを見た日本人論は、それはそれで西洋思想的なのではないでしょうか。

 

ここで「ワンネス」の考え方が出てくると話がしっくりくるような気がしています。

そもそも私たちは大いなる一つの一部です、いろいろな切り方によって視えるものが違っていたとしても。

根本の根本は「すべて同胞」「すべて私」「すべてカミ」というように。

 

心理学の伝統でいうところの「普遍的無意識」の部分で誰もがみんな繋がっているものなのだとしたら、それをブツブツと切ってしまうことには何かしらの不都合が発生しないでしょうか。

 

西洋思想は西洋思想として認め受け容れて、そのメリットと上手に融合・融和した形での「新・東西洋思想」のようなものが編み出せると良いのかもしれません。

 

このことはバクっとですが、ここ数年私の中に浮かびあがって来ている課題の一つです。先日のアメリカと北朝鮮の話し合いにおいても、そんなことが少しずつ投影されはじめているのかな、と感じたりもしています。

 

と言ってもまだまだヨチヨチ歩きの意識です。もう少し確固たる足取りになれれば良いのですが。

 

クソ忌々しい、穢れ、不浄などの言葉が私の深層心理の中から浮かびあがって来たということは、その反対側、裏面の真実にも気づけたよというダブルでのメッセージなのかもしれませんよね。

 

純粋な、生きる力のみなぎる清浄な存在こそ私たちの姿だと。

私たちはひとつひとつどの命をとっても崇高な、清々しい、麗しい命そのものなのだと。

 

真のメッセージは本当はこちらなのだとしたらどうでしょう。

 

この、真の姿を想い出すための「クソ忌々しい」意識だったとしたら。

 

すべての意識は愛であり、光であり。同時に闇であり。

 

そんな、仮「新・東西洋思想」、字の並びがこちらの方が自然なのでこうしていますが、東洋が上、という意味ではありません、そんな新たな世界観のスタートの予感が私の中に、芽吹きはじめています。小さいけれど確実に。

 

 

 

 

 

 

 

 

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