THE アジア な私

ミョウチクリンなタイトルになってしまったけれど、私はかなり「THE アジア」タイプです。

 

黒目が大きい。

身体は人より小さくて身に着けるものはたいてい小さ目サイズのもの。

 

ところがコンタクトレンズだけは特注。

黒目が人より少し大きめらしい。

 

髪の毛も黒い。

 

どちらかというと丸顔。

 

こんなルックスだからでしょうか、アジアに行くとたいてい現地の女性に間違えられます。

 

タイ、バリ、マレーシア、ベトナム、フィリピン。

アジアではないけれどサイパン、グアム、ロタ。

 

これらのどこに行ってもロコの女性と間違えられました。

 

フィリピンのセブに行った時は、空港についた途端、見知らぬフィリピーナのおばあちゃまにhugをされて、言葉は理解できないけれど「よく帰って来たね、お疲れ様」というようなニュアンスで出迎えられた経験があります。

 

言葉がわからない、ごめんなさい、私は日本人です、と片言の英語で答えたけれど、おばぁちゃまはますますギュッと抱きしめて「いいんだよ、いいんだよ」みたいなトーンの言葉を口にしていました。

 

そう考えると、私の「氣」は結構アジアンチックなのかもしれません。

 

アジアのどこにでも通じるような「融合」チックな「氣」。

 

確かに普段の生活をしていても、近くに住んでいる中国、韓国、ベトナム、フィリピン、そしてインドの人たちからのウケが悪くない。というか、かなり良い方です。

 

さらに旅行に行くと、私はホテルスタッフとゲストにも気に入られます。

小柄で覚えやすい顔なんだと思っていたけれど、もしかしたら「氣」のせいなのかも。

「THE アジア」な「氣」。

 

東洋思想ってすべてを「ひっくるめて」みたいなところがありますものね。

 

自慢に聞こえたら申し訳ないですけど、きのう、はじめて気づいたのです。

 

そっか、「氣」はすぐに伝わってしまうんだ、ということに。

 

日本にいて、日本人と接していると「言葉」という武器でいくらでも取り繕える。

よその国 !  の人に対してはそうはいかない。

 

もしかしたら、犬猫ちゃんや小さいお子さんなどに対してと同じくらいハートのエネルギーがまんま伝わってしまうのかもしれません。

 

そう言えば、と想い出したのは、私の父はもう他界しているのですが、父が晩年入院した病院には認知症のおじいちゃま、おばあちゃまなどもいらして、主人と私がお見舞いに行くと、見知らぬおじいちゃまやおばあちゃまがニコニコしながら、私たちの隣に座っている、ということが少なくありませんでした。

 

あれってお互いの間で「氣」の融合がなされていた、ということなのかもしれないですね。

当時は全然気が付かなかったけれど。

 

 

去年の秋にマカオに行って、たくさんの「融合」エネルギーを感じて感激して帰ってきました。まだまだ私の知らないアジアがあるし、世界規模で言ったら知らないところばかり。

 

世界一周をしたい、というほどの欲望はないのですが、もっともっと様々な国の、リアル感に触れてみたい。

 

ネットで瞬時に繋がった気分になることはもちろんできるしそれはそれで素敵です。けれどやはりその土地の風、匂い、光、そして人々の「氣」に直接触れるのとでは大きな違いがあるのかもしれませんね。

 

私はマカオに行くまで実は中国の人が少し苦手でした。

理由は騒がしい人が多いような気がしていたから。

 

実際マカオに行って、大陸の「氣」の影響なのかとても雄大で大らかな、しなやかな「氣」を感じました。以来、中国の人が大好きになりました。

 

こんなことなら早く行っていればよかった。

 

近いうちに韓国に行きたいです。

今はまだあまり興味のない国だからこそ。

 

そうやって、意識の壁はあちらの国の人たちの「氣」によっても取り払われるものなのかもしれません。

 

「氣」と「氣」の良い意味でのぶつかり合い。

ケミストリー。

お相手の人にとっても気持ちの良い「融合」が生まれるかのではないでしょうか。

 

言葉だけのやり取りでわかったような気になるのはもったいない。

 

もしかしたら私の活動フィールド、拡がるかもしれません。

またまた大きな何かが手ばなれした気分です。

 

元々ふらふら、自由大好きな柔軟宮の生まれですから。

 

きょうもまた素敵な青空です。

 

そうそう、当エッセイを書く前に「闇に葬られた命」というタイトルのエッセイを書いていたら、

9割ガタ書けたところで全文が消されてしまいました。

 

私たちは私たちの意識によって「無意識のうちに」自分自身の命を闇に葬っているのかもしれません、ということがシメの文章になっていました。

 

「その通り、YES !」のサインだと思って執筆し直すのはやめました。

 

手放すタイミングが来た「モノゴト」は、引っ張り過ぎない方がいい。

 

実は当エッセイも最後に書いていた一行が突然消えました。

 

それは文中の「またまた大きな何かが手ばなれした気分です。」 のところです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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