結界を解く 4

今度の結界は「集団思考」。

 

日本人は集団内での「顔」を気にします。そういう社会通念、慣習のような中で生き続けているから。

例えば会議などがあると、「多数決」によって「優位」が決められます。

もっともこの辺は世界共通かもしれませんけど。

 

イエスマン。

 

個人的に私には絶対無理と思うものの一つ。

 

本当に「イエス」なら「イエス」と言うけれど、いつも人の顔色をうかがい、自分の本当の気持ちに繋がるよりも集団の気持ちに繋がろうとする。

 

私は子供の時から集団行動が苦手で、「いつも一緒」のグループ行動はできないタイプ。

もちろん気の合う仲間との時間は大好きだし、絶対ひとりじゃなきゃいやだ、というほどのこだわりはありません。

 

だからと言って必要もないのに「つるむ」ことはできません。

 

女性はどちらかというとつるむ傾向の人の方が好かれるみたいなので、私みたいなタイプはある意味変わり者、異端児、マイノリティーなのかもしれません。

 

が。

 

本当に好かれているのかな、あの人。

好かれている自分を装いたいんじゃないのかな。

 

と思うことも少なくありません。

 

「好かれている自分」という仮面が最優先なので、実は周りにたくさんお友達がいても心は満たされない。

いつももっともっとと外に何かを求めている。

 

外には何もないよ。自分に必要なものはすべて自分の中にあるんだから。

 

そんな気がする場合もあったりします。

 

私はヘソ曲がりなんでしょうか。

 

実はヘソ曲がりな自分も悪くないな、と思っていたりします。

へそ曲がりって欠点なのではなく、私の個性であり特徴なだけのような気がするから。

 

ヘソ曲がりと言って人から攻撃を受けたことはありません。

意図的に「わ」を崩そうとするほどではないからかもしれません。

けれど意思表示はさりげなく、ハッキリしていきたいタイプです。

 

ところで、いつもみんなと一緒はおへその真ん中を視ていることになるんでしょうか。

 

へそ曲がりチックな私からみるとイエスマンこそへそ曲がりに視えたりします。

集団という「わ」のおへそを意識し過ぎて、自分自身のおへそを視ないようにしているような気がするからです。

もっと自分のおへそを大切にしたらいいのに。

その方が気持ちが楽になることもあるんじゃないでしょうか。

ジャッジではなく、ただそう感じるという意味です。

 

どちらが心地よいかは人それぞれですものね。

イエスマンの存在によって成り立つ社会があるのも事実です。イエスマンは限りなく柔軟な人なのかもしれません。

私のような社会性からの「ヘソ曲がり」と「イエスマン」とどちらの価値が上ということもありません。

それぞれがそれぞれに役割を持っているだけです。

 

このように考えていけば一目瞭然、立場の違いでどちらも「異端」になり得ます。

同時にどちらも「主流」になり得ます。

 

数の論理。

 

大切な場合もあるけれど、実は数は関係ないこともあったりします。

なんにでも「優劣」を付けるのも集団思考の現れなのかもしれませんね。時に数が多いけれどどう視ても「優」でもない、なんてこともありますものね。

 

いろいろ、いろいろお話したいんですけど、まずは「集団心理」「集団思考」、もうお世話にならなくていいかも、というご報告です。

 

そうは言っても過去の集団意識、集団想念はまだまだ私の中に眠っているはず。

 

これからの物事の判断基準に「集団思考」はいらなそうだけど、過去の集合意識とはまだまだお付き合いが続くということなんでしょうか。

 

 

 

 

 

 

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