塵、という言葉に引っかかりました。

 

宇宙塵という言葉があるんだそうです。

宇宙塵とは、宇宙における微粒子のことで、なんでも「星くず」などはこの宇宙塵と大いに関係があるんだとか。

 

科学的に検証するのは得意ではないので、私流に解釈してのお話です。

 

宇宙塵 ⇒ 星くず

 

塵にはどんな意味があるのでしょう。

 

なんとなく、ほこりとかゴミとかを思い浮かべる場合もあるのではないでしょうか。

 

ところがインドに由来する『華厳経』の中に以下のようなものがあるらしいのです。

 

一つの微塵のなかに、あらゆる微塵の数に等しい微細な国土がことごとく住している。

 

つまり、一つの微粒子の中に、一切の微粒子に等しい数の小さな国土がすべ て入っている、という意味らしいんです。

 

これは仏陀の宇宙観なんだとか。

 

ということは塵はそもそも光の存在だ、ということになりませんか。

そう考えると「星くず」の意味も理解しやすくなりますね。

 

塵も積もれば山となる。ふむふむ、と納得できます。

 

ところが「塵」で調べてみると案外、不要なもの、ゴミなどと書かれているものも少なくありません。

 

旧約聖書によると、はじめて知ったんです、聖書には興味がないので。

というか個人的に宗教に興味がなくて、が正解なんですけど。

 

アダムというのは、土地の塵から創られたんだとか。

女性名詞で「アダマー」。

 

ということは人間の祖と言われる存在も光の粒子から創られた。

 

ふむふむ、なんとなく話が繋がります。

 

ところがいつからか誰かが塵をゴミと判断するようになったのではないでしょうか。

ゴミは不要なもの、とるに足らないもの。

 

意味が少し「負」に傾きます。

 

何が言いたいか、というとそもそも星くずは美しいもので、たいていの場合「素敵」なものと思うのに、ゴミくずに対して「素敵」と感じる人はなかなか少ないんじゃないか、ということ。

 

そもそもが光の粒子で創られたもののはずなのに。

かたや「キラキラ」、かたや汚い、不用品と感じている。

 

これが人間の物事の捉え方なんだな、と思いました。

 

元々はおなじもののはずなのに、見え方が違うだけで優劣をつける。

 

ゴミ、汚い、いらないもの。

 

そうなんでしょうか。

 

生活を豊かにしているものの「一部」。

ゴミの中にも「キラキラ」とするものは宿っていないのでしょうか。

 

仏陀は確か、すべてのものに神性が宿っている、と捉えていたはず。

ゴミはすべての中に入らない ?

 

そもそも不要なものならなぜ地球上に存在しているんでしょうか。

何か価値があるからこそ、存在意義があるからこそ存在しているのではないでしょうか。

 

あまり消費に走り過ぎないように、との戒めのためかもしれませんし、これだけ豊かなのだからあなたはそんなに欲しがらなくてもいいのだよ、安心しなさい、というメッセージのためなのかもしれません。

 

これを人間にあてはめてみましょう。

 

クズ、ゴミみたいなヤツ。

でも私たちと同価値なんですよね、そう言われる人でも。

 

なぜならその人はそういう役割を担っているだけだから。

 

過去生を考えれば、私たち自身だってクズみたいなヤツとして生きたこともあるのかもしれません。

 

もしかしたら今生においても陰でコソッと「アイツ、クズだよな」と言われているのかもしれないのです、自分がどうクリーンに生きていようと。

 

私自身、「塵」に「光」という意味があるのを知らなくて、ある意味感動してしまっているのです。

 

顕在意識の中でゴミを美しいと感じられるほどの余裕はないけれど、でも少なくともゴミだってそもそもは「光」なんだと思うことで、世界への目の向け方が変わってくるような気がします。

 

たとえゴミでも一度は自分のところに来てくれたものなのだから「ありがとう」と伝えてから処分するとか。

 

「また何かの機会にあえるのを楽しみにしているよ」という思いを伝えるとか。

 

そして言うまでもなく、「光」と「闇」も同列なので、たとえキラキラとした輝きが目に視えなくても、その存在意義は確かにある、ということ。

 

モノを捨てる時に気持ちが少しおろそかになっていたような気がします。

 

みんな「塵」。

 

 

 

 

 

※ 追記

 

当エッセイに、仏陀と聖書のお話が出てきています。

 

多分、なんですけど私の中で「東西の融合」が進み始めているのではないかと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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