貧・病・争

ビックリです。

 

前エッセイをアップした途端、体調がグンと良くなってしまいました。

 

実はランチタイムでテラス席でのランチを楽しんでいた時、右手の手首に一瞬にして4か所も蚊に刺されてしまいました。

 

手首に集中ということに意味があるな、と思い、「かゆいからかく」が私の中では「手を使って書け」のメッセージに変わりました。

そして今、手首をみたらすでに蚊にさされたあとは残っていません。

お薬も使っていなければヒーリングもしていません。

 

自然治癒、です。

 

そう、前エッセイ時にも同じメッセージが届いていました。

 

「手を使って書くことこそがあなたの本領発揮に繋がる」というものでした。

 

私にとって「書く」ことは瞑想でもあり、「カミ」との繋がりの顕現化を確証する瞬間でもあるということのようです。

 

「書く」ことそのものに対する不安や疑問、「こんなことを書いても大丈夫 ?」という恐れなどが私の潜在意識から浮かび上がっている、今こそ突き進め、のサインなのだと一人密かに感じていたりしました。

 

ちなみに手首のトラブルは、誰かに拘束されているイメージを伴うんだとか。

手錠をはめられているのです、意識の手錠。

「使うな」

おそらくそれは私自身が招いたものであるのでしょうけど。

 

さて本題です。

 

「貧・病・争」という言葉、はじめて知りました。

 

なんでも今の新興宗教は、民衆の中に、つまり私たちの中に、この三つの意識があるからこそ成立するもので、誰もが貧しさや病気、そして人との争いごとや訴訟事の不安を解消するために神頼みをする、その状況が現在の「信仰」に繋がっている、ということなんだとか。

 

そして当時にこれらは「拝み屋」と呼ばれる人の得意技でもあるらしいのです。

 

ここではあえて詳細は説明しません。気になる方はご自身で調べられてみてはいかがでしょう。

 

私は個人的に「ピン」ときてしまったのです、そのいずれもの言葉に。

 

もしかしたら自分の過去生なのかもしれませんし、実際それらしきお相手に遭遇し、その方とのご縁をこちらから遠慮させてもらってから、我が家には一切の病気らしき病気が出なくなったということを経験しています。

 

もちろん風邪とか、熱とか、下痢とかその辺の調整現象は別にして。

 

おそらく、なんですけど「貧・病・争」にフォーカスしている人は、それを「救う」立場の人になってもご自身のフィルターは常に「貧・病・争」に同調しているのではないでしょうか。

 

貧しさは豊かさよりいけないもの。

病気は健康よりいけないもの。

 

争いごとは平和・平穏・平安よりいけないもの。

 

その刷り込みをご自分の中に強く強く染み入らせてしまっているのではないでしょうか。

 

「宗教家」あるいは「拝み屋」と称される方、すべてがそうだという意味ではありませんし、またもしそうだとしてもそれによって救われる方々がいらっしゃるのでしたら、私のような部外者が口を挟むべきところではありません。

 

実は貧しさには貧しさの役割、意義、価値があり、同じように病気にも意義があり、争いごとにも意義がある、と考えてみると、これらの信仰心というものの根底の見直しができるのかもしれませんね。

 

信仰心は一人一人それぞれ異なる見解があってあたりまえ。

何かに対して全幅の信頼を寄せる、ということがいけないことではないと思います。

 

私の個人的体験を振り返ってみると、愛猫・海・かいが重篤な心臓病になり、さまざまなケアをしてもう後には方法はないと感じた時点で出逢った方が、おそらく「拝み屋」と呼ばれる魂の方ではなかったのか、と感じています。無意識のうちに私は「神だのみ」をしていたのでしょうか。それにふさわしいいお相手があらわれた。

 

ご本人はそれを公表していなかったのでまったく気づきませんでした。

 

今、振り返ると「ああ、そうだったのか」とすべてつじつまがあいます。もちろんその方とのご縁は必然。出逢うべくして出逢った方だと思います。

 

もしかしたら、私自身の前世がそうだったのかもしれません。だとしたら前世で私は無意識のうちにかもしれませんけど、どなたかを「貧・病・争」の方向に引っ張ってしまった可能性も出てきます。

 

「貧・病・争」にどう向き合うのか、どう受け容れるのか、そんな見直しのチャンスがやってきました。

 

貧しくても貧しさの中にこそある宝物を見出す。

病気であってもその中に煌きを見出す。

争いごとはあるけれど、人として幸せでいられる自分を感じる。

 

少しテクニックは必要そう 笑。

 

でも実践できたら、かなり楽しそうですよね。

 

私の実家はすでに両親と兄が他界し、もうほとんど家族の体をなしていませんが、今思うと「貧・病・争」にドンピシャな家庭でした。

 

そう言えば母は一時的に宗教にはまっていました。かなりの短期間ですけど。

 

これらを一つ一つ私がクリアしていけばいいのですね、意識のあり方として、またそのエネルギーへの対峙の仕方として。

 

その第一歩が当エッセイの執筆なのでしょう。

 

いゃあ、本当に体調良くなってしまいました。

「書く」ことは「癒し」にも繋がる。

どなたでも。

 

私たちの手はダテにあるんじゃありません。

 

使ってこそ、働いてもらってこそ、私たちの人生に豊かさがもたらされるものなのかもしれません。

 

私たちの中に備わっている宝物、一つ一つにフォーカスしていく。

足らない何か、ではなく、備わっている何か。

 

欠乏感ではなく充足感。

 

 

 

 

 

 

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