私は瞑想中毒だった

※ 当エッセイは執筆2018/07/19。アップできたのは7/21。その理由は前エッセイと関係していそうです。私たちはいつもカミからのプレゼント、地球からのプレゼントにくるまれるようにしてこの命が存在しています。

ということは。

とりたてて「瞑想」を意識しなくても常に瞑想状態でいられるのではないでしょうか。

そんなことを意識しながらお読みいただけるといいのかも、と感じました。

 

 

 

さて。

私は瞑想中毒だ、と気づいたのはここ2、3週間のことです。

 

そもそも「中毒」ではなく「依存」だと感じていました。

実際瞑想をすると簡単な体調不良などはよくなってしまって、また気持ちもスッキリするため、日々の習慣として瞑想を取り入れてきました。

 

瞑想歴は10年くらい。

かなりの「なぁんちゃって」なのでほぼ呼吸法の延長レベルです。

ヨガのレッスンを受けていたことが関係していたのか、10年くらい前になんとなくやってみようと思い、しばらくは雑念が出るわ、出るわ状態と、いわゆる「寝落ち」状態を繰り返していました。

 

そして東日本大震災の後、私はかなりの時間を瞑想に費やすようになりました。

瞑想は祈りとほぼ同じ作用が考えられ、量子力学という科学のジャンルでもその作用は認められているとのことから、私は遠く離れたところからでも何かできることを、と何か災害が起きると必死に瞑想を続けていたのです。

震災の翌年、愛猫・海・かいが限りなく突然死に近い形で旅立ってからは、瞑想はある意味私の友になりました。

 

本来、瞑想は「行為」として行うものではなく、その状態そのものを「瞑想」と呼ぶんだとか。

一般的に言われる禅の瞑想とか、ヨガの瞑想とか、少し解釈が難しいところかもしれませんね。

 

ちなみに私は座禅スタイルではありません、椅子に座ってのカジュアルタイプの瞑想です。瞑想時に水晶を使うとより意識が高まりやすいという説もありますが、私は石は使いません。最近は椅子に座り、数回呼吸をすると自然に瞑想状態に入る感じです。

 

2年くらい前のことでしょうか、私って瞑想依存なんじゃない ?  と気づいたのは。

けれどはじめにお話したように、心身のバランスがかなり整う感覚を実感できていたので、自分で

「依存」を認識している分には構わないかな、と感じていました。

 

言い訳になるかもしれませんが、災害時などには瞑想を積極的に行っていましたし、また瞑想のお蔭なのか、ヒーリングやアニマル・コミュニケーションの能力などが知らないうちに開花するなど、「ご利益」的なものも多かったからです。

 

そして昨年の年末くらいに、自己肯定をすすめるために瞑想を取り入れるという内容の本を読み、以来、自己否定の感情が出てくると、それを感じ切って自分自身に統合し、自己肯定のエネルギーへと変換するために瞑想を活用するようになりました。

 

これは結構ヘビーです。

自己否定という強いネガティブなエネルギーを感じつくす、というスタイルなので。

ただし、自己否定が自己肯定に変わる感覚とそれによる自分軸の確立感覚は半端ではなく、これは私に必要なものだ、と確信していました。

と同時に瞑想はその時の自分自身を感じ取る時間へと変わりました。

 

つまり最初の頃の瞑想はどちらかというと明らかなヒーリング目的、最近の瞑想は結果として癒しはえられるけれど、主目的は自分自身と一つになるため、あるいはエネルギーを統合するため、というように変わりつつあります。

 

2、3週間前のことです。調べものをしていた時にたまたまたどり着いたサイトに「瞑想をすると脳内麻薬が出る」というような記事が書かれていました。

なるほど。

瞑想をすることによる精神的快感を求めていたのだな、とはじめて自分の意識の大元を感じることができました。

 

何か辛いことがあってなのか、現実を視たくなくてなのか、単にリラックス感、リフレッシュ感を求めてなのか、いずれにしても私はかなりの期間「快感ホルモン」の分泌を執拗に求めていたらしい事実に気づき、困惑してしまいました。

 

そっか、いわゆるドラッグ中毒と同じ。

それが自分の脳の中で生成される物質だった、その違いだけだったのね、と。

 

けれどその一方でいわゆる修行僧と呼ばれる方たちが求めているのもこの状態なのかしら。だとしたら、もちろん同レベルで語れるものではないけれど私の瞑想中毒もそれほどそれほど問題視する必要はないのかもとも思いました。

 

そして昨日。

これだ、という記事に遭遇しました。

 

チベット密教の修行をした、という日本人の方のお話です。

 

ちなみに私はチベット密教には興味がないタイプ。

以前チベタンベルという浄化作用が高いとされるベルを購入したことがあるのですが、なんとなく違うなと感じ、すぐに処分しました。

そもそも私は「密教」があまり得意ではないようなんです、魂的に。

 

それでもその記事の内容にはピンときました。

 

なんでも山の奥で瞑想を教えている高僧の方がいらして、けれど人々はそこには行かず、ごく普通の農作業をしている農夫のところに瞑想を教えて欲しいと押し寄せているんだとか。

 

そこでその高僧は、農夫に「お前が瞑想をしている姿など見たことがない。それなのになぜ瞑想を教えられるのか」とたずねたそうです。

 

農夫は「私がいつ瞑想から心をそらしたと言うのだ」と答えたと言います。

 

つまりその農夫は瞑想する心の状態の中に日常を包括している。

通常の瞑想は日常生活の中に瞑想する時間を包括させている。

 

今までの私は完全に後者を求めていたんですね、修行僧でもないのに。

 

ハッとひらめきました。

日常生活と瞑想状態が常に一致した状態を目指すのが私の本筋だったんだな、と。

 

今までの10年間はいわばその予行練習のようなものだったのかもしれません。

 

となると「中毒」とか「依存」とかそんなことさえ気にする必要もなくなるのでしょうか。

 

常に瞑想状態。

常に日常生活。

 

これが合体すれば、ある意味怖いものなしかもしれません。

 

けれど現実的に捉えるならば、これはあくまでも理想であることがわかります、少なくとも私にとっては。

 

実はこの状態をマスターしているのが動物君です。

彼らは常にカミと一体化し、その中で日常生活を送っています。

彼らの日常はいつもカミと同化しているのです。

 

羨ましい限りです。

エゴの大きい人間である私がそれに倣うことはぼ不可能と言えるでしょう。

 

けれど「それでいいんだな」が私の結論です。

 

自分のできる範囲。

自分のバランスに合った範囲。

 

時に瞑想が特化してしまう時があったとしても、ほんの少し今までより、瞑想と日常が合体した状態を実現できればいいのではないでしょうか。

 

ただし、瞑想中毒に近い状態で多幸感を求めていたことは、現時点では心理的にも肉体的にも+の作用があったと考えても良いのかもしれません。少なくとも瞑想を始める10年前より、今の私の方が数段健康的だからです、心身共に。

 

瞑想中毒が行き過ぎると、場合によっては統合失調症や離人症という症状にも発展しかねないんだとか。

自己判断ですが、どうやらここには至っていない様子です。

この辺の言葉は心理学用語なのですが、専門的に、ではなくてもなんとなく心理学の考え方が身についていたことが、私の意識の暴走を無意識のうちに抑えてくれていたのかもしれません。

 

いずれにしても脳内麻薬の魅力は諸刃の刃なのですね。良くも悪くも。

 

どんなに良いとされるものでも「ほどほど」が良い、というのが私のポリシーです。

冷静に判断して、瞑想は少し「し過ぎ」だったかもしれません。

 

今後は、ボチボチにすればいいのですね。

 

実は私はこうした執筆時にも瞑想状態に入っていることを感じています。

この感覚が他の日常生活の中でも自然に出てくれるといいんですが、それはこれからのお楽しみといったところでしょうか。

 

瞑想をある意味「神格化」する考え方の方はたくさんいらっしゃいます。

瞑想を生活にとりいれているにも関わらず、個人的にその手の方たちとはどこかで心の距離感を感じていました。

 

一方、瞑想を完全否定する考え方の方もいらっしゃいます。

それもどうなんだろう、と感じていました。

 

適切な距離感。

それは一人一人違って当然ですよね。

 

私は今まで以上に日常生活を重視したいので、瞑想オタク 笑 は卒業の時、と決めました。

ということはもしかしたら、自己肯定がそこそこ進んだ時、という意味なのかもしれません。

 

私の場合はここ半年くらいをのぞけば、おそらく自己否定の感情からの逃避のために脳内麻薬を活用させてもらったことが多いような気がするからです。

 

セルフではありましたが、ある意味、治療に近い感覚の「ケア」目的だったのかもしれません。

 

自己流だったから10年近くかかったのか、10年続けたからこその効果なのかはわかりませんけど一区切りはついたような、そんな気がします。

 

※ 以下 2018/07/21 追記

 

外に出るとすべてが呼吸一つで同調できる仲間たちなのだな、という感覚が浮かんできました。

つまりすべての命に「カミ」であり、その「魂」が宿っている。

 

それらと繋がる要素は呼吸。

 

ということは少し気持ちを落ち着けて深呼吸を数回すれば、それはすでに瞑想状態に入っているということなのではないでしょうか。

 

だとするとわざわざ時間を作って、「これから瞑想するぞ」的意識化はもう必要ないのかもしれません。

 

今までの10年間、実際瞑想によって助けられたことはたくさんあります。

その延長上に今の私がいます。

 

実は瞑想というのは追い求めるものなのではなく、自分の中に招き入れるものなのかもしれません。

 

そのスイッチは「意識」だけということなのでしょうか。

 

新たな発見。

新たな自分。

新たな時間。

新たな価値観。

 

動物君はその「名人」なのですね、生まれながらにして。

意外にも「師」はものすごく身近なところにいました。

 

はい、実は自分の「マスター」は自分自身に他ならない。

私は数年前にそんな想いにたどり着きました。

それに気づく機会を与えてくれているのが、私たちにとって身近過ぎてともすれば見逃しがちな動物君だ、ということなのでしょう。

 

彼らのように自然に流れるように生きていくことがこれからの私の課題の一つなのかもしれません。

 

 

◇ 本エッセイで参考にさせていただいたチベット密教修行者は牧野宗栄さんというお名前の方です。ネットで検索したらたまたまインタビュー記事がヒットした、というご縁です。

 

その流れでチベット密教について調べたら、この世に生きることは「苦」としている、との記載がありました。

だから、この世ではないどこかに瞑想という形である意味トリップしようとするのでしょうか。

 

宗教的瞑想と私のしてきた瞑想はきっと何かが違う。同時に何か一部は同じ。

 

私の場合、あまり頭でその意義を考えないで感覚的になんとなく、ということが多いので、おそらく瞑想に関しても、「私流解釈」を私の潜在意識がしてくれているような気がします。

 

ナビゲーターはいつも私の中に静かに、厳かにたたずんでくれているようです。

 

どなたのナビゲーターも同じなのでしょう。

 

だからみんな違う。

 

それがあたりまえ。

 

 

 

 

 

 

 

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