すべての感情が自分の資産

私たちは時に、ポジティブ、ネガティブの概念で物事を判断します。

 

けれど真のポジティブは、すべてを「同等」の価値あるものとして「受容」することなのではないでしょうか。

 

心のあり方を探求しはじめた時、私たちは時に宗教だったり、スピリチュアルだったりの扉をたたきます。

 

私自身もそうでした。

私は宗教には興味がなかったのでスピリチュアルな概念、ニューエイジ系と呼ばれる概念の扉をたたきました。

最初はその未知の世界が光り輝いてみえて、私は光の存在だ、私は完全なる存在だ、とその「教え」通りの世界観にどっぷりと浸っていました。

 

不思議なもので、そうすると自分の波動がドンドン上がっていく感覚を得られるのです。

ところが約2年ほど前、何かが違う、という感覚がわいてくるようになりました。

 

本当にポジティブだけを視ていれば私たちは幸せを得られるのか。

スピリチュアルやニューエイジ系のリーダーとされる人々でも晩年に、「ガン」を発症しているらしい事実はなぜなんだろうか。

 

もちろん病気になることがいけないわけではなく、その方の人生の課題に「病との向き合い方」が含まれているだけなんだろうと思いながらも、一方で何か釈然としないものを感じ始めたのです。

 

心が整えば身体も整う。

この、基本ともいうべき概念にそもそも誤りがあるのかしら。

 

そこで浮かんで来たのが心理学の考え方でした。

誰、ということでもなく、自然にそれとなく浮かんできました。

 

そしてもしかしてこういうこと ?  と感じたのは、人間には顕在意識と潜在意識というものがあって、私たちが普段感じられるのは顕在意識。

けれど約9割は私たちの人生を牛耳っているとされる潜在意識の働きによるもの。

 

つまり顕在意識と潜在意識が=である人は存在せず、その現実となってあらわれている現象はもしかしたら潜在意識のあらわれなのではないかしら。

 

そう思えたのです。

 

そうするとつじつまが合うんですよね。

 

顕在意識で「覚醒」「悟り」に近い感覚を得た方でも、身体には重篤な病気、症状があらわれる場合がある、ということに。

 

そしてそれはどうやら潜在意識に「光」以外の「闇」を抑圧している場合に起こり得る可能性があるらしい、と。

 

そこで私はそれまで「光」だけにフォーカスするポジティブ・シンキングというものから、すべてを受け容れる、真の受容という方法論を取り入れることにしてみました。

 

そのことに気づいてから約1年8か月が経とうとしています。

その間、ニューエイジ系の本を読んだり、その傾向のサイトを訪問したりすると、心の根本が揺れました。私の今取り入れている「全受容」では波動が下がるのかしら、ネガティブと言われる良くない状況を引き寄せてしまうのかしら。

 

さらにすべてを受け容れようとすると不快感や苦痛も伴います。

なんだか、ドヨンとしたいや~な気分を感じなければならない場合もたくさんあって。

 

迷いに迷った1年8か月。

 

が一つの結論が出ました。

 

すべての感情は私の資産だ、という結論です。

 

経験に無駄なし。

人生に無駄なし。

 

であればネガティブと言われる感情を感じるその経験こそ人生であり、人生のすべてである体感は私を成長させてくれる資産ではあっても、リスクやお荷物であるはずはない、とそう確信を得ることができました。

 

嫌な感情がわいてきます。

それをジャッジせず感じます。

すると自己統合が進みます。

その時点で自分軸が少し太くなっています。

 

その積み重ねが人生の喜びなのではないでしょうか。

 

一時的に波動が楽に上がるのは確かに心地良いけれど、それは精神安定剤を服用しているようなもの。一時的な喜びに過ぎないのでは、という感じを得たのです。

 

もちろんつらい時に副作用のない精神安定剤を服用することは好ましからざることではないでしょう。

けれど人間には必ず「もっともっと」という欲望が備わっていますから、一時的服用のはずの精神安定剤を「もっともっと」と追い求めるようにはならないでしょうか。

そして一時的な気分の高揚はある日突然、ガクンとした落ち込みを招かないでしょうか。高揚感が大きければ大きいほどその落ち込みも大きくなるはずです。

 

山と谷の法則です。

 

私は20代の後半、父が躁鬱病を発症してしまい、私の仕事も多忙で一時的に精神安定剤の類を服用したことがあります。

スピリチュアル系統で言われる「ヒーリング・グッズ」や「セラピー」「ワーク」などとは程遠い薬剤です。

その時に薬の量がどんどん増えていくことを体験しました。

しばらくしてその効果より恐ろしさが勝って、薬断ちをしました。

薬を減らしていく過程での強い気分の落ち込みは今考えてもぞっとします。

 

では副作用がないと言われる「ヒーリング・グッズ」「セラピー」「ワーク」には依存性は発生しないのでしょうか。

私たちは「もっともっと」と欲しがりたくはならないのでしょうか。

 

私は瞑想依存状態でしたから、その感覚がわかります。

瞑想は脳内麻薬を分泌させるものらしく、そのことを私は知識として理解できていなかったのですが、実際瞑想時間はもっともっと、と増えつつありました。

 

その時に一時的に「快」が勝り、その結果、神秘体験などもしましたし、霊能力と思える力も開花しました。

 

が、瞑想をしていない時に「快」の状態は続きません。時にイライラ、時にどうしようもない不安がこみあげてきたり。

 

瞑想でさえ、一時的な精神安定剤なのでは、と。

こう思ったのはここ数日のことです。

 

私の個人的体験によると、自分の「闇」を認め、感じ、受け容れる時、真の癒しが起こります。

この積み重ねの方がアップダウンは少ないのです。

 

私はセッション時にヒーリングをさせてもらうことがあります。

ただしヒーリング依存に陥りそうな方にはヒーリングはお断りすることにしています。

 

ヒーリングももちろん一時的精神安定剤の類です。

その時に状態が一時的に上がる。

その上がった時に心身の自然治癒力が働くという二次作用が期待できるため、明らかな身体の症状などはほぼ緩和します。

 

がそれをキープし続けるためには、その人がご自分の心と真正面から向き合うことが大切になってきます。ヒーリングだけで何とかなる、なんとかしてほしいという方にはヒーリングの施術は向きません。「自分で」という意識が必要です。「ヒーリング」はあくまでもそのお手伝いなだけですので。

 

依存性に関しては施術する側「ヒーラー」が明確にその事実を理解して、「依存」に導かない方向へと引っ張ることが求められるのではないでしょうか。

それには諸刃の刃であるという事実を受け容れる、ということが必要になるのかもしれません。

 

私たちはともすれば自然の、とか天然の、とか宇宙の、とか、「副作用はありません」の言葉を過信しがちです。

「依存性」「中毒性」の真実を受け容れ、その上で有効活用できるような「方法論」があればより安心な気がします。

 

その「依存性」「中毒性」が生まれない、あるいは限りなく「依存性」「中毒性」が少ない「癒し」。

それが自分の感情のすべてを受け容れる「全受容」ではないかと、ここへきてやっとその確信が持てるようになりました。

 

もちろん、ニューエイジ系、スピリチュアル系の従来のセッションで上手に自分を高めていらっしゃる方もあるでしょう。

 

私の場合は、そちらのタイプよりも「全受容」タイプの方がうまくいった、ということです。

「全受容」とは「全肯定」ということ。

すべてが私の味方であり、宝物であるということ。

ネガティブは敵ではないということ。

ポジティブと同じように私に光を与えてくれる存在です。

 

ネガティブを排除しようと格闘し続けて来た過去の私に「ありがとう」と「さようなら」を告げました。

 

これからもずっとすべての感情が私の人生の友なのだと思えるから。

まだまだいっぱいいっぱい出てくるでしょうね。あんな想い、こんな想い。

 

その一つ一つがダイヤモンドの原石なのだとしたら。

 

私たちの中はお宝でいっぱいだということなのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

 

 

 

※ 追記

 

私のカウンセリング・セッションでは実際にこの「全受容」をおすすめして、今求めている答えのベストが見つかったと言ってくださるクライアントさまが続々と増えています。

 

 

 

 

 

 

 

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