役立たず、不要品 2

前々エッセイで、私は自分のことを「役立たずの不要品だ」と感じていたらしいとのお話をしました。

 

実はこの感情の大元だろうと思う意識のことがわかっていました。

それは私だけでなく、おそらくどなたの中にも潜んでいる集合意識の一つ。

 

これこれ、これが私たちを苦しめていたのよ、と気づいたのは一昨日のことです。

 

二元性のお話をしたときに、マニ教について触れました。

この地球は善の神、悪の神の闘いの場である、宇宙戦争の場である、という基本教義のある宗教です。

 

さらにその根本には善悪二元性というものがあって、すべてが対立の関係。

例えばその中には精神と肉体の関係もあって、マニ教の考え方によると精神は善、肉体は悪なんだとか。

 

私たちの肉体は悪なので、善である精神によって、それを善に向けなければならないというのです。

ですので「物質、肉体」はかなり嫌悪の対象として、戒律なども考えられています。

 

所有してはいけない、性欲はいけない、生産活動はいけない、菜食でなければいけない、などなど。

 

まさに苦行。

それらの苦行をもって、私たちは精神の力でやっと善に近づけるという教えです。

さらに自分の身を守るための救済という考え方も出てきます。

自分の命を救うために他者を救うのだそうです。犠牲、あるいは奉仕の精神で。

 

私は宗教に興味はなくて、さらにマニ教もまったく知らない宗教で。ですからにわか勉強。さぁっと上っ面をおっかけただけです。ですのでもしかしたら誤解、曲解の部分が含まれるかもしれません。

 

それを前提にお話をしていきます。

 

いゃあ、マニ教ってメチャクチャストイックですよね。

でもこれってたいていの宗教に何らかの要素が流れていませんか。

さらに言うと、部分的にですけどニューエイジ系のスピリチュアル路線にも流れています、浸透しています。

 

ちょっと精神世界に足を踏み入れた人なら、たいていこのマニ教の教義、戒律の要素はなんなく自然に受け容れているのではないでしょうか。そうでなくても社会通念の中にしっかりと組み込まれているかもしれません。

 

その大元は「善悪二元論」「善と悪の対立」です。

そして人間の肉体は「悪」の存在。

 

ああ、これが私たちの深層心理、潜在意識のさらに奥深くの集合意識として誰の中にも息づいているんだな。

だから私たちは基本「勝ちたい」し、その一方「敗者である自分」にも執着するんだな。

肉体は悪だから、物質欲や生存欲求に対して強い罪悪感を感じるんだな。

 

ああ、そぅか、そういうことなんだ。

 

すべての頭の周りの霧が晴れた感じです。個人的であることは当然ですが「ああ、こういうことだったんだ」ということが視えてきました。

 

スピリチュアル的ワークも含めて、すべての宗教的修行は人間の肉体ではなく、精神性優位に向けるための行為だったのです。

いわば、人間の肉体の力を否定する考え方。

 

だから、「あの世は素晴らしくて、しかもこの世は幻想で」みたいな考え方が出てきているのかもしれないですね。

 

つまり言葉をかえるとこちらの世界の「ありのまま」の自分のあり方を最初から否定しているのが、この世界に浸透しているベースの意識なのです。

 

私たちの命は心身魂の三位一のバランスによって成り立っているものなのに。

心身魂はどれも同価値で優劣はないのに。

 

この、お互いの間の大きなギャップが私たちを苦しめていたんだ。

少なくとも私はそうだ、と感じました。

他の方がどう感じるかはその方の人生の課題であって、私が口をはさむところではありません。もちろんマニ教そのものも否定する気持ちはありません。

「私には無理」とは思ったけれど 苦笑。

 

ですので私はまずこのマニ教が説いた大前提を感じて受け容れました。

私は勝ちたい、勝って勝って善に向きたい存在なんだ。そもそもが悪なんだから。という大前提です。善に向くためには勝たなければならないのです、闘わなければならないのです。自分の命に備わった「悪」と。

 

自分の意識としてはそこを外したい。

けれどすべて受け容れなければ、自分にウソをつくことになる。

 

感じて感じて感じつくしてきのう。

 

たくさんの涙と共に「私は役立たずの不要品だ」という新たなる意識を感じつくしたのです。

 

「役立たずの不要品」の意味がお分かりになりますか。

 

私たちの肉体は「悪」で精神に劣るものだから、そもそもが「役立たずの不要品」だという位置づけです。

 

この、基本的刷り込みの意識がきのう、ふと沸いてきてくれたというわけなんですね。

 

そして先ほどのエッセイで、私は「心身はつながっているのがデフォルト」とお話しました。

 

そう、そもそも心身魂は一体化して一つの命として存在しているわけですから、「分離」しているはずなどないのです。

 

心と身体がバラバラになった感覚。確かにパニックに陥った時、私たちはそういう感覚を感じます。でもそもそもが「二つ」「三つ」にわかれているものなのか、それともすべては一つなんでしょうか。

 

「〇」を目指す「すべては一つ」の考え方がベースであるとしたら、そもそもの「二元論」はその一つの中に組み込まれるものではあっても、それが「〇」に勝る、絶対的価値ではないということなのかもしれませんよね。

 

分離と統合。

 

どちらが上、ではなく、どちらもお互いがあってこそ存在する観念。

 

「私は役立たずの不要品」という感覚は、言葉を換えれば「私は分離の存在だ」ということです。

それをしっかりと感じつくすことで「私は統合できた」「私はこの宇宙において有用な存在、なくてはならない存在」という価値観に変換することができたのです。

 

そう。この世に無駄なものはないし、不要なものなんて何一つありません。

 

その、一番大切な「大元」を思い出すための「善悪二元論」の存在だったのです。

 

「私は役立たずの不要品」という意識エネルギーは全人類に共通したものだと感じていました。

集合意識、集合想念です。

このエネルギーが地球全体を覆いつくしていたのですから、私たちはいつも「役立たずの不要品」としての自分が優位に立っていたのではないでしょうか。

 

けれどその意識は感じて自分自身に統合してしまえば、自分のエゴとして絶対的力をもってあらわれては来なくなります。

 

万が一浮かんできたとしても「ああ、今は分離意識が強くなっているのね。余裕がなくなっている時なのね」と自分を振り返るチャンスにもつながります。

 

分離による善と悪の対立ではなく、統合による善悪の共存、協調。

 

さて私は後者を選択してしまいましたが、あなたはどちらを選択されるんでしょうか。

 

どちらを選択しても、大元のところでは許されています。

 

善と悪の対立を選んでも大元は何者かの愛に包まれています。私はそう信じています。強く強く。

 

すべては同価値。

すべてはなくてはならないもの、唯一無二の存在。

 

すべて、です。

それが「〇」の意味するところなのかもしれません。

 

ちなみにマニ教は一時は世界宗教だったそうです。

今は信仰する人も少なくなり、けれど中国の奥の方だったかで、ひっそりと息をし続けているそうです。

 

 

 

 

 

 

 ※ 追記

 

少しだけ修正をしようと一旦消したパソコンに電源を入れたら。

なんとトップ画面というのですか、パソコンの画面の画像が「登山」のシーンから、海へと変わっていました、自然に、勝手に。

 

私の中では修行は山登りと同じ感覚なんです、高いハードルを設定して、努力して頑張って上へ上へと突き進む。

 

海はすべてを包み込む、すべてをあるがまま認め受け容れて抱きしめてくれる。

 

たまたま、なんでしょうけど、嬉しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

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