奉仕は美徳

先日、善悪二元論についてお話しました。

 

実は私には「奉仕は美徳」という概念がどうにも気になります。

 

そもそも私たちは存在しているだけで、この宇宙の営み、地球の仕組みに貢献出来ているはずなのに、なぜさらに「奉仕」とか「自己犠牲」を求められるのでしょうか。

 

つまり「今のままのあなたでは不十分なんだよ。だから奉仕が必須なんだ」と言われているような気がしてならないのです。

 

どうやらその大元は善悪二元論を唱えるマニ教という宗教の概念にあるらしいということに気づきました。もちろん宗教の是非、マニ教の是非を問いたいわけではありません。

 

ただ私のハートは違和感を唱えているのです、私自身の課題として。

 

さらに「徳」という言葉。

「徳を積む」という概念こそ大エゴなのではないかと感じたり。

そう、エゴはいけないものではなく、私たちに本来備わっている資質のようなもの。けれどそれを意識しないとエゴは肥大化して私たちの人生をコントロールしようとします。

ほどほど、良い塩梅で付き合っていかないと、エゴとも。

 

「徳を積む」 ?

「今のままの自分では不十分だから」 ?

 

なるほど、その根本、本質に自己否定のエネルギーを感じてしまうのですね、私のハートは。

 

私たちはそもそも、役に立つ存在としてこの世に生を授かっているはずだし、とりたてて「徳」を意識しなくたって自然に徳を積むような流れがあるんじゃないでしょうか。

そこで「奉仕」や「徳」を意識することによって「奉仕活動を行う偉い自分」だったり「徳を積む、人より素晴らしき自分」だったりの意識エネルギーが膨らむような気がするのです。

 

私たちは自然体、かつ等身大であるときに、自分自身の力を最大限に発揮できるようになっているはず。

となると「奉仕」や「徳」という言葉は自分のため、であると同時に、誰かに対する忠誠心の表れなのではないかとそう感じてしまっているのかもしれません。

 

なんなんだろう、この感覚。

 

と思っていたら、昨日『この世界の片隅に』というドラマを観て、あ、これだ、という言葉にぶつかりました。

 

「勤労奉仕」です。

 

戦争中は未成年であっても、また女子、女性であっても何らかの形でお国に奉仕する、という概念があったとのこと。

 

お国に奉仕することこそ、国民の義務であり、その一方権利であり。

 

なるほど、この意識概念について良い悪いではなく、私たち日本人の意識の中には集合意識、あるいは集合想念として息づいている、ということがわかりました。

 

だとすると、私たちはともすれば「奉仕」そのものを神格化し、今の生き方の中でもその考えをずっと継承している。

 

つまり私たちの意識の中にはまだまだ太平洋戦争の心のエネルギーが残ったまま、なのです。

 

ですので時にお国のため、時に年長者のため、時に自分自身の没後のため、なのか「奉仕は美徳」とさらにさらに頑張り続けるという意識体系が構築されているのかもしれないですね。

 

そっか、宗教的概念であると同時に、お国への帰属意識というか、忠誠心、視方を変えると「私たちはこうやって忠誠をつくします。その代わりに私たちの命を守ってくださるという契約をしてください」とお願いをしているようなものなのではないかと気づきました。

 

私たちは時に宗教だったり、その場合はたいていは「カミ」という存在に忠誠を誓い、それが形を変えて「お国」に対する忠誠心としてその関係を育み続けるものなんだ、ということに対して私のハートが何かを感じていたのかもしれません。

 

戦争のない、少なくとも戦争に直接的に関与しない日本という国に生まれたその意味。

その意味を私たち一人ひとりが考えるときに到達しているのかもしれないですね。

 

奇しくもきょうは広島での平和記念日とされる日。

広島にはミクロネシア、サイパンの近くの小さなテニアン島から飛びだったエノラ・ゲイと呼ばれるアメリカ軍B29戦闘機によって原爆が落とされました。

 

私は20代の時、そんな意識など何一つ理解していなかったのに、なぜかテニアンのエノラ・ゲイが飛びたった空港に足を踏み入れ、その時日本からの慰霊団の慰霊ツアーに同行していたのです。

自分の欲することではなかったのに。ただのリゾート旅行のはずだったのに。

 

以来、そのことはほとんど忘れていた状態。

 

前エッセイでサイパンのことを書いてはじめてそうだったと記憶が浮かびあがってきました。

 

おそらく、なんですが私は太平洋戦争にまつわる人々の意識「集合意識」を自分の意識の中に統合するお役目をいただいているようなのです。

 

知らないうちに。

無意識のうちに。

 

それこそが「奉仕」の意味なのであって、意識して「奉仕しよう」というのは、本来の奉仕の意味とは異なるものなのかもしれないな、と今ふとそう感じました。

 

私たちの魂はそれぞれ役割をもってその意義が形づくられているのではないでしょうか。

そしてその魂が肉体を受肉する前に、今生ではこんな課題をクリアしよう、そのためにはこんなストーリーを設定しようと決めてきているのではないでしょうか。

 

そのストーリーのまま生きることこそが徳につながり奉仕につながるのかもしれません。

 

私自身はそんな気がしました。特別に何かを意図的に行うことではなく、また見返りを求めるものでもなく、結果的に「奉仕させられている」「徳を積まさせてもらっている」ものなのではないかと。

 

私は活動家でも思想家でもないので、どなたかを引っ張り込もうという考えはまるでありません。

 

ただ平和であることのありがたみを全身で感じたい。そう思います。

 

そういえばサイパンは玉砕の島とも呼ばれていて、日本人が民間人も含めてたくさん「バンザイ」をしながら岬から海・うみの中に我が身を投じたという歴史のあるところ。

確かに島のあちこちに日本の本土以上に戦争の色が色濃く残っていました。

 

そのサイパンへの日本からの直行便がなくなる時代。

 

それは果たして、戦争時代の終焉を告げているのか、それとも。

 

サイパンは歴史に翻弄されている場所なのでしょうか。

もしそうだとしたら、そこをふるさとだと感じる私の魂は完全に呼ばれたのですね、サイパンに。

サイパンの息遣いに。

 

やっぱり行かなくちゃ。

 

サイパンの良いところも悲劇的なところもすべて受け容れられる時が来たから。

 

あの島にはもしかしたら当時分断のエネルギーが流れていたのかもしれません。

また、一つの大きな何かに生まれ変わるその日のために。

 

ちなみに今、サイパンの主流はアメリカというよりむしろアジアです。

日本ではなく中国と韓国。

 

何らかの融合・融和の種がまかれはじめているのかもしれません。

 

胎動、かもしれませんね、停滞・後退ではなく。

 

きちんと生きている、というあの島の魂の叫びを今、感じることができました。

 

「ありがとう」。

 

良かった。大好きな、サイパン。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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