オール・フラット 2

前エッセイで、カウンセリングを受けてくださった方のお母さまのわんこの旅立ちと共に「オール・フラット」の概念がストンと腑に落ちた、というお話をしました。

 

そしてきょう、それってもしかしたらヒンドゥーの概念と似ているのではと感じたのです。

ヒンドゥーはカースト制度がベースになった宗教体系、哲学のようなものなので個人的にその部分には引っ掛かりを感じています。

ただし、ヒンドゥーそのものは多神教の考え方がベース。

一神教タイプのピラミッドの考え方とは本来逆の方向を向いているはずです。

 

もちろん一神教やピラミッドタイプの社会について「ノー」と言っているのではありません。

個人的に、今生の私のハートには響かないとただそれだけです。

 

そのヒンドゥーの教えの中に、入り口の顔はそれぞれ異なっていても、行きつくところは同じ。すべて「一つ」のところにたどり着く、というものがあって、私はその考え方が大好きなのです。

ヒンドゥー教徒でもなんでもないんですけれど。

 

オール・フラットの意味するところにそれがあるとしたら。

 

私たちは考え方の異なる世界を攻撃対象にすることはなく、単に自分のハートの響く世界に真摯に向き合っていれば良いということになりませんか。

 

まずは自分。自分のいる世界。

そこだけを見つめているうちに、自分の中の意識や価値観が外の世界に投影されて、結果的に外の世界も自分の望む価値観と同じようになっている。

 

私は「オール・フラット」が好きなので、私の視る世界もそのうち「オール・フラット」になっていくことが期待できる。

 

そうやって創られる私の世界観は内も外も「オール・フラット」になる。

 

その足がかりがみえてきた、ということなのでしょうか。

 

私は日本人特有の「八百万のカミ」だったり「森羅万象にカミが宿る」というような考え方がしっくりくるタイプ。

つまり一神教ではなく多神教タイプの魂のようです。

 

すべてにカミが宿る、のと同時に私の中にもカミは宿っている、と感じています。

その自分の中のカミに向き合い、調和を保っていくことが私の人生に課せられたテーマなのだとしたら。

 

一神教ベースの考え方は尊重はするけれど、崇拝は必要なくなります。

多神教も一神教も同等なのだな、フラットなのだな、とその根拠が自分の中で明確になってくれたような気がします。

 

優劣意識もいらないし、攻撃対象もいらない。

すべてを包括できる自分に少しずつ近づいていければいいのかもしれません。

 

実は宗教に関してはほとんど興味がなくなっています。元々無宗教。

10~6年前にスピリチュアルの扉をたたきましたが、そのスピリチュアルにもあまり興味はなくなりました。

 

どの考え方にもメリット、デメリットがあると感じたからです。

 

けれどこのことに気づくことがものすごく重要だったのでは、と感じています。

 

すべてのモノゴトにはメリット・デメリットがあって、そのいずれをも受け入れることではじめてコトの真理が視えてくるものなのかもしれませんから。

 

そのことを確信するためのスピリチュアルとのおつきあいだったような気がしています。

スピリチュアルの扉をたたいたことによって、にわか勉強ですが宗教についても少しだけ知る機会ができました。

そういった意味でスピリチュアルは私にとって大切な要素だったのかもしれません。

 

そしてその先に、あえて「先」と言いますが「オール・フラット」の概念が浮かび上がってきたのです。

 

前エッセイでも触れましたが、「オール・フラット」はつきつめていくと「わ」になるはず。「〇」になるはずです。

 

すべては大いなる一つ、というスピリチュアルのスタンダードともいうべき「ワンネス」の感覚が、私の中では二元論とは別のところで形を成しはじめてくれているようです。

それも善悪二元論の世界を経験したからこそ。

 

すべて一つにつながっている。

すべて無駄なし。

すべてに価値あり。

すべて平等、公平。

 

この意識を私のデフォルトに設定できるように、自分自身との向き合い、対話、しっかりと楽しみ続けていこう、という人生の目的がはっきりしました。

 

一つの「生」の営みである「死」というシチュエーションがこのことに気づかせてくれたのです。

しかもその「生」の主はこの世でのワンちゃんなのですから、彼らとの縁に恵まれた自分の魂にあらためてありがとう、を言いたい気分です。

 

彼らと共にある命。

少なくとも今生の私は、動物君と共に生きています。それが私の、道。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ページTOPへ戻る