自然と共に浄化の嵐

こちらは台風一過なのでしょうか、青空が広がっています。

 

真夜中突風の音が鳴りやまず、私の住んでいるマンションは植栽が多いからか、木々のざわめきが半端ではありませんでした。

 

私はというと、額だけでなく全身から汗が吹き出し、冷たかった額もやがて、「発熱」状態へと変わっていました。一晩中、熱と発汗で苦しみ続けていました。

 

こんな時は不思議なことになかなか寝付けません。交感神経優位の状態なのでしょうか。いくら深呼吸をしても効き目はあらわれず。

実はここ一週間くらい、眠れるのは朝方になってがやっと、という日続きのため、きのうのように熱と発汗状態の身体にはより一層応えます。

 

私は本当は夏バテなのかしら ?

自律神経完全に壊れてる ?

私のケアは間違っている ?

 

こうなると不安しかわいてきません。

 

少し冷静になって、「あ、今私は不安を感じたい時なんだな」と自分に向き合うことで気持ちを落ち着かせます。

やっと寝付けたのは5時過ぎ。主人を送り出すため、7時には起きなくてはなりません。

 

拷問だ、もう、修行はまっぴらだ、と私の中のもう一人の私が叫びたがっています。

 

主人が家を出て、さすがにあまりにもキツイので身体を横にした途端、意識のセンサーがモードを変えました。

 

自己犠牲はもう終了だよ、と。

 

その後、「あなたたちは生まれながらの罪人です。その罪を赦してもらう手段としてあなたたちは自分をいけにえとして捧げる、という選択肢を選んでいます。いけにえ、すなわち自己犠牲です」という感覚が浮かんできました。

 

おそらくこれはキリスト教の概念ではないでしょうか。

良い悪いではなく、このことを自分自身の中に統合しなさいとの指示を感じました。

 

私は罪人と何度も何度もこの言葉をくり返しながら。

 

すると自然に心身が緩み始めました。

 

その選択を本当にあなたは心から望んでいるのですか。

 

そんな質問が浮かび上がってくるのを感じました。

 

いえ、私はそのような交換条件のようなものは望みません、と答えました。

そもそも本当に私たちは罪人だとその「方」は思っているのでしょうか。

本当に私たちの自己犠牲を望んでいらっしゃるんでしょうか。

 

すべて心の中のやり取りです。

誰かが目の前にいるわけではありません。自問自答というヤツです。

 

私たちは罪人であり、その罪を赦していただくために自己犠牲という手法がある、という考え方がしっくりくる方もいらっしゃるのではないでしょうか。私にはそう感じられなくても。

 

そして私自身はどう感じているのか、しばらく自分との対話を続けてみました。

 

私の中にクッキリと浮かんできたのは、私たちは罪人である、と自己犠牲はワンセットになっているということでした。もしも自己犠牲を望まないのなら、自分は罪人であるという意識も視方をかえればよい、と。

 

私はエゴだらけ、煩悩だらけ。

けれどそれがどうしても=罪悪とは直結しないのです。

その部分も含めて「大いなる存在」は私たちを温かい目で見守ってくれているのではないかと。

あるいはもしかしたら「罪悪」の概念自体、「大いなる存在」と私たち人間のとらえ方は異なるのかもしれない。

 

そんなことが浮かび、もし万が一私たちのすべてが「罪人」であったとして、「罪人」である自分も、時にはそうでなくなる自分も両方受け容れればいいのではないかと感じました。

バランスです、どちらも対等にフラットに受け容れます。優劣はありません。

 

そこまで感じたら、不思議に全身が軽く感じられました。

 

あらあら、知らないうちに浄化が進んでしまったようです。

 

もしもあなたが自己犠牲モードに入りやすい方で、けれどできればそれは卒業したいと思われている場合、私のお話が何かの役に立つかもしれません。

 

ご自身の気持ちをしっかり味わって、次なる何か、どこかのために。

 

お昼はとても何か作れる状態ではありませんでした。

家に一番近いレストランにやっとの想いで行くといつものメニューではなくバイキング。

ちょっとガッカリ。と思ったらなんとおいしいリゾットがありました。

 

そうそう、気分はリゾット、もしくは鍋焼きうどん、という感じでした。

イタメシ屋さんなので鍋焼きうどんはさすがに 笑。

 

いただきましたよ、外の青空をながめながら。

 

こういう時はヤッパリごはんつぶ。

なんだかんだ言って日本人なんだな、私は。

 

私は子供の時にぐずったり、泣いたりして親を困らせることのない子だったらしいのです。

いつも我慢してた、私さえ我慢してればお父さんもお母さんも私をかわいがってくれると信じ切っていたみたいで。

 

けれど抑圧した感情は定期的に発熱という形であらわれました。

私は熱を出すことで自分の存在意義を証明しようとしていたみたい。心理学的にとらえると。

本当は「ヤダ」とか「そういうのやめて」とか「もっと私をみて」とか「今私はこれがしたいの」とか、そういう子供らしい感情で自分を感じたかったはずなのに。

 

屈折していたんですね。

同時にそれが私の人生の学びだったわけで。

 

そんな時に母がおかゆとリンゴのすりおろしで私のケアをしてくれた。

大人になって母が他界した今となっても熱を出した時の私はその頃の記憶をたどっているんだな、ときょう改めてそんなことを感じました。

 

「自己犠牲」、私の中で健全なボジションを築いてくれるといいな。

 

何だか、きのうの午後からの私の身体のコンディション、今回の台風と共鳴しあってた感じがするんです。

 

一見良いことも一見悪いことも、みんなひっくるめて「大いなる存在」の愛と共に流れているんだろうな。

それを「良い」「悪い」とジタバタするのが私たち人間のさだめなのかもしれないですね。

 

ちなみに今回の浄化の波は大きかった。

 

苦しみが大きくて体調がつらかった分だけ、より多くのモノゴトが統合、昇華され、新たな融合・融和が始まったみたいです。

 

山と谷の法則。

喜びが大きい分、苦しみや哀しみも大きい。

 

どちらもがあってそのいずれもが輝きだす。

 

私たちはたとえ一人ぼっちだと思う時があったとしても、絶対に自然は私たちを見捨てない、見放さない。

その奥に見え隠れする、あの、存在も。きっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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