□ 「自由とは」自分の制限を外すこと
「自由」。自らを由とする。
私の一番好きな言葉です。
私は星座的にみても、血液型でみても自由の象徴としてこの世に生を授かったらしいことがうかがえます。
もっとも、「血液型性格判断は適切ではない」との説もあるみたいですが。また、まったく同じ日に生まれたとしても、人生の目的や課題が同じであるとは限りません。
おそらく、私の中の何かが「自由」に大きく反応して、それが自分にとって大好きな言葉となって光り輝いているのではないでしょうか。
さて、「自由」。
その反対にくる、たとえば「制限」とか「束縛」とか「呪縛」とか、私は大嫌いな言葉です。
同時に、「社会の枠」とか「人と同じとか」も苦手です。
何者かの管理下に置かれるのも嫌い。
どこまでも自由に、奔放に、が私の望む心の居場所です。
ところが最近気づいたのは、「自由が欲しい」「自由が大好き」と言っている人の潜在意識には、それと同じ分だけ「制限」「制約」「束縛」「規定の枠」というような概念のエネルギーが眠っているという事実。
「縛られたくない」と感じている人ほど、何かに縛られて安心しています。
「束縛されたくない」と感じているほど、何かに束縛されて安心しています。
「管理されたくない」と感じている人ほど、管理される自分に安心感を抱いています。
すべて「潜在意識」でのこと。無意識のところです。
そこに気づかず、「私は自由奔放に生きたいのよ」と声を限りに叫んできたのが、今までの私。
私は縛られていた、誰より自分自身の意識に。
私は管理されていた、何より私自身の意識に。
なぜならその方が安心できるような気がしたから。
そしてその安心感を恥ずかしいものとして自分の中に抑圧してきた。
ないものとして。存在しないものとして。
そして外の世界に向かって「自由でいたい」「自由になりたい」とだだをこねていたのです。
私を縛っていたのは私自身。
その呪縛を解く時がやってきました。
私の前進、進歩、何より自由を制限して来た自分自身の意識の解放の時がやってきてくれたのです。
「自由」を叫ぶ人は多いでしょう。
けれど100%自由な人は存在しません。
「自由」を望む人は同じだけの「制限」を抱え込んでいるものだから。
この考え方は心理学的考え方です。
心理学の伝統ではエネルギーはすべて「表裏一体」、またすべての源は「自分の意識」ととらえます。
まずその事実を受け容れます。
次に、他者が制限しているのではなく、自分自身が制限していることを受け容れます。
ではその制限は何なのか、何を望んで制限しているのか、そんなことを一つ一つ探っていきます。
権力者や支配層が自分を縛っている ?
社会が自分を縛っている ?
大人が自分を縛っている ?
その意識を抱いているのは誰でしょう。
自分自身ではないでしょうか。
その大元の意識の「ありか」を受け容れられるか、受け容れられないか。
どちらが良い、どちらが悪いではなく、受け容れられる場合は、心理学をベースにしながら自分の心に向き合うことができるようになります。
いえ、とても受け容れられない。その場合は心理学ではない考え方で自分の心に向き合えばよいのです。
その選択も、選択の結果も「自由」です。その人が選んで決めるものなのですから。人生はすべて。
私には心理学がしっくりきますが、もちろん心理学が万能薬とは限りません。人によってはまったく合わない場合もある。そこを認識しておくことも大切です。
「自由」とは外からの鎖を外すことによって得られるものではなく、自分の創り出した制限の枠に気づくことによってのみ得られるものなのかもしれません。
このように「書く」行為によって生まれる自己肯定は、さらに自己実現へとつながっていきます。
自己を尊重し、自己を確立し、自己を信頼してこそ、私たちは制限を外せる。
制限を自分の責任として受け容れることができるのです。
「自由」とは自分の制限を外すこと。
誰にでもできること。
そのプロセスは大変だったとしても。
その一つの手法として、私は「書く」ことを取り入れています。
文字より絵の方が得意な場合は「描く」ことで。
書いているうち、描いているうちに、何者かの関与がわかってくるようになるでしょう。
「悪いようにはしないよ」、善意の声と共に。愛の声と共に。
その声になんの疑いも感じなくなった時、私たちはきっと「自由」を手に入れています。
本来誰にでも備わっている「自由」があたりまえになります。
声高に「自由、自由」と叫ばなくても。
その中にあることがただただ自然なことに感じられるようになるのではないでしょうか。
その日が来るのが楽しみです。
あなたにも訪れる、その、日。