ダンス。
これほど私にとって不得意なものはないかも。というくらい大の苦手項目です。
リズム感ゼロに近い私のこの肉体。
頭では理解できても身体は理解できない。
なぜなんだろうと感じながらものすごい自己否定感を感じていました。
が。
原因らしきものがわかってしまったのです。
それは私が「ADHD」傾向だから。
さまざまなタイプの「ADHD」があるらしいのですが、人と同じ動きができない、人と同じように「画一的」な身体の動きが取れない、という特徴もまた「ADHD」の特徴の一つらしい、という事実がわかったのです。
興味のある方、調べてみるとおもしろいですよ。
その内容に触れた時、私は心の底からホッとしてしまいました。「あ~、これだったんだ」って。
私がダンスの才能に恵まれなかったのは、運動神経が鈍いとか、リズム感のなさとか、もちろんそれもあるかもしれないけれど脳がそうできないようになっているからなんだ、私がいけないわけでも、私が人より劣っていたり、怠けているわけでもなくて、私の脳の特徴としてそうなんだ、ということがわかったからです。
つまり「できない」のが私のデフォルト。そう創られている、何かの意味があって私の肉体と脳の関係は。
それなのに、です、無謀にも先日ラテン・ダンスのレッスンを受けてしまいました。
先生にははじめから「私、リズム感ゼロなのでできないと思いますけど」とお断わりをして。
「いいんですよ、楽しんでくだされば」
うんうん、こういう感覚の先生、大好き。
そして一時間のレッスン。
ものの見事に「できなかった」、撃沈。
ところがですね、その一時間私はずうっと笑っていたんです、できない自分に対して自虐的ではなく、「ほら、やっぱりできないよね。できなくてあたりまえなのよ。できないのがあなたなの」と自分自身をあたたかく見守る母のような感覚。
わかります ?
私は今まで「できない自分」はいけないものとして捉えていたので、できないという事実が恥ずかしくて、とても自己肯定にはいたれなかった。
それが先日のレッスンでは、「ほら、言った通り、全然できないでしょ」と自分で自分を肯定していたんです。
一時間大笑いしていたのは、私くらいかな。
「どうしたの ? ツボにはまっちゃったの ?」って周りのおばさまたちから声をかけられるほど。
レッスンが終わってから、「先生、やっぱりできませんでした。でも楽しかったです。ありがとうございます」と先生に伝えました。
「いいんですよ、できる、できないじゃないんですから。楽しいのが一番です」
私はどうしても「できる」「できない」で判断する癖がついてしまっていて、頭では、「そんなこと気にしなくてもいいんだから」と思っても、結果、「できる」「できない」のジャッジをしているケースが少なくないタイプです。
特にスポーツ・クラブでのレッスンは「私でもできるもの」が選択基準。その基準を設けている時点で「できない自分はダメ」と自己否定を募られせてしまっているのに。
ここ半年くらいの「ヨーガ・レッスン」のお蔭でその傾向は少しだけ緩和されつつありました。
人と比べない。すべて「各自」の適当で。
というのがその先生の指導のポイントです。
できる、できないではないんです。理想の形も完ぺきな形もありません。すべてその人にとっては「ちょうど良い」んです。
というのが。
私は一時間のダンス・レッスンの中で、形、という意味では「できなかった」。けれど、楽しむという意味では最高点くらいの楽しみ方が「できた」のです。
これもまた「できる」「できない」への執着かもしれませんけど、自己否定、自己肯定という意味では、ものすごい自己肯定が進んだ一時間だったということになります。究極の「自己受容」の時間。
私は元々ラテン系の音楽が大好きで、言葉もスペイン語の響きがハートに響きまくるタイプです。だから実はラテン音楽を聴いているだけでヒーリングが起きることもしょっちゅう。
そんなことから察するにラテン圏での過去の記憶を分離させたまま、私は今にいたってしまっていたらしいのですが、一時間の大笑いでそれが統合されてしまったみたい、開放されてしまったみたいなのです。
それにしても一時間も自分自身のことで笑っていられるなんて、なんて幸せな時間なんでしょう。
ダンスができない私だからこそ体感できた喜び。
あえて苦手なところに飛び込んで大笑いしちゃう。そんな「ヒーリング」方法もあるんですね。
私にはそういう時間がなかった、今まで。私の魂は修行、苦行傾向の道を選択していたから。
真の解放。意外となんでもないところにあるものなのかもしれません。
あのレッスンのお蔭で、多分これからは身体が固くてポーズの取れない自分でも「できない自分」と自己否定を重ねることは少なくなるかもしれないな、とヨーガ&ヨガ・レッスンとの距離感が変わるような気がしています。
どんなことでも自分で自分を癒すことはできるんですよね、きっと。
その、一歩を踏み出すほんの少しの勇気があれば。
ラテン・ダンスを教えてくれたのはピラティスの先生です。
ソフトで個人的には大好きな先生。
過去生でご縁のあった魂なのかな。
こうやって、なにものか、の導き、知らないところで自然に入っているのが私たちの人生なのかもしれません。
解放のサインが出ている時は、ありがたくそのチャンスを活かさせてもらったほうが楽しいですよね。無理やり、ではなく自然により自然に。
ラテン・ダンスのレッスンに参加しようと思った時も「よし、開放するぞ」なんて思いはまったくなくて、何となく「やりたいな」と感じただけでした。
もしかしたら「やりたいな」と感じた時点でその後の「解放」は決まっていたのかもしれません。
なるほど、そういうこと ?
「やりたいな」のサインはものすごく大事、ということのようですよ。
※ 追記
今、ふと浮かびました。「個性に融けこむ」。
ちなみに文字違いの「解け込む」の意味、「答えが出る」なんですって。