私たちは「自己受容」のために生まれてきた

あなたは自分を「受容」できていますか。

 

自分を「受容」できている人は他者の「受容」もスムーズに進みます。

 

一方、他者を「受容」できない場合は、逆説的にみて「自分自身」も受容できていないことが多いもの。

 

ふと浮かんできたのは、そもそも私たちは自分を受容するために生まれたきたのではないか、ということです。

 

けれどたいていの場合、「自己を拒絶」することが麗しいとの社会的通念の中で生きています。

 

例えば自己犠牲。例えばエゴを捨てる。例えば執着を捨てる。例えば欲を捨てる。

 

みんな、自己の受容にはつながりません。あるがままの自分を捨てなさいという考え方ではないでしょうか。

 

私は個人的にそう感じます、今までそういうモノの視方さえ意識してこなかったけれど。

 

私たちはこの心身魂。自分で選んできたわけですよね、そういう説があります。

 

必要だからこの心身魂なのではないでしょうか。

 

そもそも必要ないのならこの心身魂のはずはありません。

 

ということはこの心身魂で体験すること、体感すること、そのことこそが私たちの命に与えられた使命であり、義務であり、権利なのではないでしょうか。

 

この心身魂だからこそ感じられることを思う存分感じる、受け容れる。そのためにこの命を授かったのではないでしょうか。

 

それなのに、なぜ、この心身魂による体験、体感を「〇〇してはいけない」と抑圧しなければいけないのでしょう。

 

なぜこんなに時間がかかってしまったのか。それもその体験を受け容れることが私には必要だったからなのかもしれませんね。

 

自分を拒絶する教えがハートに響く場合もあるでしょう。

 

私はその段階がものすごく長かったため、今、こうして自分を受け容れることの喜びがものすごく大きくなっているみたいです。

 

自分を感じる。

 

自分を認める。

 

自分を受け容れる。

 

そのことをサポートするための私たちのこの「心身魂」。

 

自分を遠ざけ、自分を捨てて生きることが求められるのなら、クローンで十分ではないでしょうか。AIで十分。

 

クローンもAIも素晴らしいところはあると思います、私たちには絶対かなわない点。

 

けれど、クローンやAIには絶対叶わない私たち一人一人の個性を求められているのです、この地球において、宇宙において、大いなる源において。だから一人一人みんな違う。

 

私は今まで自分を拒絶したり抑圧したり攻撃したりしてナニモノかにとって都合の良い人間になることこそ、素晴らしい人生なのだと思ってきたけれど、モードは完全に反転しました。

 

自分を受け容れ、自分を解放し、自分と支え合い時に協調しながら生きていく道を選択しました。自分自身の意思で。

 

きっと、それがいい、それでいい。

 

わざわざ自分を殺すために、この地球に転生してきたわけはないのだから。

 

今生の私の「今」の考えです。いつかまたまた反転が起きるかもしれないけれどそれも必然。

 

ありのままの自分をあるがままに受け容れる、というフィルターが私の心身魂のベースに加わりました。

 

たとえそのプロセスは辛かったり苦しかったりしたとしても、闇は必ず光に反転するという性質をもっています。その闇が大きければ大きいほど、もたらされる光は大きくなる。

 

そのために私たちは大きな闇を抱える、という人生を歩んできたのかもしれませんね。

 

大きな反転の喜びを感じるために。

 

 

 

 

 

 

 

 

※ 追記

 

 

さきほどスポーツ・クラブに行って感じたこと。

 

今までの私にとってはスポーツ・クラブは道場でした。苦手な何かを克服するための。

 

これからの私にとってスポーツ・クラブは自分を感じる場所。自分のすべてを感じ、受け容れるための母親の胎内のようなもの。私はただそこに身を置いて任せていればいいのです、抗うことなく。時の流れに。

 

自分の中に自分自身の安全基地を見つけるそのための場所。

 

そこに集う人はそのためのパートナー。対立の相手はいらなくなりました。少なくとも顕在意識では。

 

これが潜在意識にも定着してくれることを腑に落ちた、というのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

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