「無価値感、欠乏感」解放

きょう10月30日は母の命日であり、愛犬・華実のお誕生日でもあります。

 

死と生の統合が進んだ、という意味なのでしょうか、きょうは私の中の「無価値感」と「欠乏感」の解放が進み、同時に「満足感」「充足感」がわいて来るのを感じました。

 

もちろん「無価値感」「欠乏感」がゼロになった、ということではありません。ただ、そのエネルギー量はかなり減ったようすです。いえ、正確には自分の中に「無価値感」と「欠乏感」の居場所を創ることができた、という意味かもしれません。

 

例えば「あの人、感じ悪い」と思うようなお相手がいたとします。それって、そのお相手の人がその人自身が感じている「無価値感」を自分に向けて投影しているだけだな、と気づきました。

 

そのお相手の人が「自分には価値がない」と思う気持ちを感じたくないがために自分の中に抑圧し続けてきた結果、誰かを対象にしてその気持ちを映し出しているだけ。

 

だとすると、投影された側はカチンとくる必要もなく、また自分に価値がないからそうされているんだ、と感じる必要もない、ということです。

 

誰かが自分の悪口を言っているらしい。けれどそれはその人のその人自身に対する評価なだけで、悪口を言われた人には何の関係もない事実です。

 

私の場合、拙著のレビューなどもそういうことなんだな、と。

 

今までの私だったら、やはり良い評価は嬉しいし、あまり良くない評価は哀しいし。それは私自身の中の「無価値感」がお相手の「無価値感」に共鳴してしまっただけ。「だけ」と言っても、実際結構傷つくこともあったんですけど。

 

でも、きょうは何だかそれを感じない瞬間が増えてしまったのです。

 

「ああ、この人はこう思うのね」と良いも悪いも感じない。

 

今まで何回も「無価値感」や「欠乏感」を統合して、ヒーリングしてきたんですけど、なかなか統合できた感じがしなかったのですが、きょうはそれを「ストン」と感じることができたのです。

 

そうしたらこんな考え方がわいてきました。

 

「あの人は私にとって価値のない人だわ」と誰かが自分に「無価値」であるとの評価をつけてきたとします。それは「無価値だ」という価値であって、何もないという意味でもないし、「あの人は私にとって価値のある人だわ」と感じてくれている人とまったく同じ「価値」、つまり「重さ」の評価なんだ、ということです。

 

自分の中に自分に対する「無価値感」がなければ、お相手の人が感じている「無価値感」に対してハートにひっかかりがなくなるので、何を言われても同じ価値しか感じなくなります。それが「良い」「悪い」の差もなくなってしまう。

 

となると、もう悪口なんて全然気にすることはなくなり、というか気にもならなくなる。

 

きょう、突然、その感覚が私の中にあらわれてくれたのです。

 

きゃ~、母と華実からのプレゼント ?

 

わかりにくい表現になっていたらごめんなさい。

 

ただ、私としてはものすごいGiftが届いちゃったな、という感覚です。

 

私たちは誰一人価値のない人間なんていなくて。もちろん動物だって植物だって、人工的に作られた「モノ」だってそうです。

 

みんな意味があるから存在しているわけで、存在する価値がなければ、そもそも存在さえしないはずですよね。

 

そのことに気づきさえすれば、「自分は無価値な人間だ」なんて「無価値感」を感じる必要はなくなるし、同時にそれを他者に投影する必要もなくなります。

 

別の視方をすると、私たちはすべて価値のある存在と気づかせるために、私たちには「無価値感」というツールが託されているんですよね。

 

それを「いけないモノ」としないで、「ああ、今はそれを感じる必要があるのね」と少しずつ受け容れていけば、自分の中の「無価値感」が暴発することはなくなります。

 

シンプルですね、この辺の仕組み、そっか、とわかってくると。

 

自分には何々の価値がない、と感じているあなたへ。

 

それはまったくの誤解です、あなたには生きていくために必要な様々なものを受け取り、自分のものとして受け容れる価値があります。そのことを思い出せるように「無価値感」という感情を活用してきたのです。

 

無価値感が強くて困っていた私でもそれが「統合される」感覚を味わうことができました。

 

自分には強い無価値感がある、と認識することがそのスタートになりました。

 

これからも大いにふらつきはあるのかもしれません。でも自分の中の「無価値感」との付き合い方のコツが少しだけわかったような気がするので、今までよりも気持ちは楽なような気がします。

 

誰かをジャッジしている時。それは自分の中の「無価値感」が暴れている時なんですね。だとしたら、そのジャッジを取りやめにして、自分自身の「無価値感」に心を寄せた方が断然、エネルギー効率が良いのではないでしょうか。

 

やっと視えてきた何かのヒントなので、このままこの方法を続けていけば、またさらなるヒントが視えてくるかもしれません。

 

母の命日、華実の誕生日、どちらも「命の日」なんでしょう、きっと。

その命に灯を灯す方法が当エッセイに託されているような気がするのは私だけでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

※ 追記

 

当エッセイ執筆 2018/10/30。

翌10/31朝、内容加筆修正しました。

 

理由

 

寝ている間に自分の中で統合が進んでしまったようで、10/30現在の私と翌日10/31の私とエネルギーが大きく変わったことを感じたため。

 

その統合の大元は「虚栄心」です。自分で統合しようと感じたわけではないのに、自然に、無意識のうちに統合が進んでいました。

 

「虚栄心」もまた「無価値感」「欠乏感」と同じように誰にでもある感情です。 

 

当エッセイからあなたは何を感じるでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

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