どうやら私は「抑圧王」らしい

抑圧と発散。

 

あなたの心はこのどちらもちょうど良い塩梅で作用していますか。

 

抑圧する力がゼロという人もいないでしょうし、また発散する力がゼロという人もいないでしょう。同時に抑圧する力が100%という人もいないはずだし、一方発散する力が100%という人もいないはずです。

 

私自身は「どうやらかなりの抑圧傾向にあるらしい」ということが今朝わかりました。「らしい」としているのは、顕在意識ではそんなことは感じたことはなく、そこそこの発散はできているのだろうと感じていたけれど、潜在意識はそうではないらしいぞ、と感じたためです。

 

そもそも私は感情を押し殺す癖が強いみたい。例えば「怒り」の感情。これをいけないものとして「抑圧」するために怒りそのものを感じないようにする何らかの回路が優先しているようです。

 

おそらく、日本人には多いと思うんですね、私と同じ「抑圧王」傾向の人。

 

まずこの事実を自分で認め、受け容れることにしました。

 

私は元々低体温体質で、今はかなり体調の良い状態に落ち着いているのですが、15年くらい前までは、手足の先が冷たくて、血流が滞っていて、そのためいつも何らかの不定愁訴があるような体質でした。

 

身体を温める食事とさまざまなエクササイズ、呼吸法、瞑想、そして意識の変容などに積極的に取り組んできたお蔭なのか、自分では「そこそこ」いい感じ、と思っていました。

 

が。

 

私の真ん中にはまだまだ「怒り」やその奥に隠された「哀しみ」、さらに「怒り」が成長してしまった「憤り」などの感情、意識が潜んでいるらしいことに気づいたのです。

 

こんなにも自分の「闇」に向き合ってきたのに、と正直ガッカリ&ビックリ。でも「闇」に向き合ってきたからこそやっと真実が浮かびあがってきてくれたのだとも感じています。

 

どうも「怒り」が昇華できない、発散できない、くすぶった感じ。何が、ということは自分の顕在意識ではわからないんです。「多分、こういうこと ?」と潜在意識を自分で探っていくしかありません。

 

ただし、「今」このことに気づけたことが実は大きいんです。気づく、ということは光を当てたということ。「無意識」を「意識」に変えるには光を当てることが必要です。逆に言うと光をあてなければいつまでも「無意識」は「無意識」のままなので、自分の中でくすぶり続ける。

 

場合によってはその「くすぶり」が身体への攻撃となって、病気につながってしまうことも出てきますから。まず「気づけた」ことに感謝して、ではどうしたらいいんだろう、と前に進む。

 

私の根深い怒りは今生の記憶だけではなく、おそらく過去生のものが大きいのではないかと感じています。

 

過去生に光をあてる。そうは言っても私は自分の過去生は明確にはわかりませんから、「多分こんな過去生があったのだろう」と推察して、その時の意識・感情に光を当てます、そして感じきる。

 

次に、頭で考えようとか、意識につながろうとかしてもやはり限界がありますから、身体を動かすことによって自然にその意識が外に飛び出してくれるように持っていく。

 

この二つを大きな柱として「怒り」に光を当てていこうと、現時点での目標がまとまりつつある段階です。

 

怒りとかその奥に隠された哀しみの抑圧って、この日本には集合想念としてうずまき続けているはずです。民族性というのか国民性というのか。

 

本来「日本」ってもっとオープンでもっと緩やかだったような気がするんですけど、最近の傾向をみるとすごいですよね、自分と異なる意見の人を徹底的に攻撃する。そういう意識が自分の中にもあるという事実を踏まえて他者への攻撃は自分自身への攻撃でもある、という、その基本原則に向き合う。自分自身のこととして捉える。

 

自分を愛してはいけないとか、自分には愛される価値がない、という無価値感からくるのでしょうか、他者への強い攻撃心は。ということは抑圧されている「怒り」の本質は「認めてもらえない自分」という無価値感からくる淋しさなのかもしれません。

 

淋しいよ~。哀しいよ~。一人ぼっちだよ~。

 

そういう、心の奥底にしまい込んだたくさんの人の意識、ちゃんと受け止めていこうと、そう感じています。

 

私たちの中には「無意識」の部分にそれこそ数知れない怒り、哀しみ、孤独感などが潜んでいます。その大元は「分離意識」。なにものかから引き離されてしまった、という感覚です。本来、私たちは「孤立」して生きていくように創られていません。すべてが相互依存という形で支え合い、協調し合いながら生きていけるように創られています。この時の相互依存は「依存」や「共依存」とは異なるものです。

 

お互いの前提に「自立」があり、自立したものたちがお互いに支え合う、という形です。

 

いずれにしても、この「分離意識」はかなり手ごわい、かなり根深い。誰の意識の中でもイニシアチブを握っています。その現実に光を当てることが私たち万人に共通した課題なのかもしれませんね。そろそろ「いやなことから目を背ける」「くさいものにはフタをする」生き方は、自分自身の意志、意識で卒業した方がいいようです。

 

私の場合、なんとか卒業できた、と思っていたのに、現実にはまだまだ残っていました。そういうことなんでしょう。卒業、はい、スッキリ !  なんてわけにはなかなかいかない。意識や感情も自分自身で育てていく、ということなのかもしれません。

 

育てる、育む。女性性の力による働きです。女性性は性別に関係なく、誰の中にも備わっているエネルギーの気質、資質。

 

「排他」ではなく「受容」ですね。当エッセイの主旨はきっとそこです。

 

あなたの女性性、男性性は、あなた自身の「女性性」をきちんと受け容れられていますか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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