身体のかたい自分を抱きしめる

あなたは身体がかたい方ですか、それともやわらかい方ですか。

 

この漠然とした「かたい」「やわらかい」という表現、身体がよく曲がるとかしなるとか、でしょうか。

 

私は身体がものすごくかたいです、前屈とか開脚とか苦手中の苦手。

 

ヨガ歴、ストレッチ歴14年目。

太極拳歴5年目。

ピラティス歴半年。

 

それでも身体のかたさは緩和しません。そのことがきのうまでコンプレックスでした。

 

調べてみたんですね、そしたら出てくる、出てくる。

 

身体がかたいと将来的にかなり困ることになるから、すぐ柔軟体操をしなさいって情報が。また身体がかたいということは心もかたいということだから、何はともあれ柔軟性を、という情報もありました。

 

はいはい、って感じです。14年近くヨガもストレッチもやってきて身体が柔らかくならない私ってどんなにガンコモノなの、と自分で自分を攻撃し続けてきました。このままだと将来的に大変なことになると。

 

この仕組み、わかりますか。

 

きてもいない将来に思い切り「不安貯金」をし続けていたんです。私自身。

 

気が付いてしまったのですよ。例えばストレッチ。身体をほぐすことが目的。それは酸素を体内に送り込んで血流のよどみを改善する、ということが真の狙いなのでは、と。つまり身体を柔らかくほぐす、は見た目の柔らかさのことではないんだろうな、という事実に。

 

おそらく血流がよくなれば身体がほぐれて結果的に身体が柔らかくなることはあるでしょう。

 

けれど例えばどれだけ前屈ができるかとか、どれだけ開脚ができるかって、そういう柔軟競争が目的ではないのではないでしょうか。

 

さらに言えばエクササイズって、身体を整えて、本来の力を引き出すことがその本来の目的のはず。だったら、血流が良くなっていれば、見た目の身体のかたさ、やわらかさは本来関係ありません。それは後からついてくるオマケのようなもの。

 

人にはそれぞれ体質があります。同じストレッチをしたって身体がすぐに曲がるようになる人もいれば私のようにいくらやっても曲がらない人もいる。

 

それに「良し悪し」のジャッジをつけたり、標準化の枠におさめようとしていることの方が不自然ではないでしょうか。

 

例えばストレッチを始める前より、やった後の方がほんの少しだけ身体が曲がるようになっているとか、楽に動くとかそういうことは一つの目安として大事なことかもしれません。

 

けれど誰かと比べてあの人はたくさん曲がっているからあの人は将来の健康や幸せが約束されている、みたいな、極論ですけど「柔軟信奉」は実は柔軟な考え方ではありませんよね。制限をつけているんですもの。「〇〇しないとあなたはこの後大変なことになりますよ」って。

 

私の教わってきたヨガの先生の二人は「柔軟信奉者」です、身体が柔らかくなるとその結果として健康と幸せというおまけがついてきます。だから前屈や開脚運動はとても大切です、のように。私はレッスン中に何回も「もう少し頑張ってください」と言われ続けてきました。私の潜在意識がその言葉を求めていたからなのでしょう。

 

私はヨガやストレッチを始める前より、はるかに体調は良くなっています。重篤な花粉症が治ってしまったし、その他の不定愁訴だってほとんどなくなってしまいました。

 

ということは、ちゃんと整っている、ということ。

 

たとえ身体が柔らかくなった、と目に視えるようなわかりやすい変化があらわれていなくても。

 

つまり。

 

私にとって身体がやわらかくなる、ということは内面的なことなんです。

外からは視えない。

 

けれどたいていの人は外から視える身体の柔軟性を手に入れている。

 

単にその違いなだけだな、と、このことに気づくのに14年近くの時間が必要だったみたいです。

 

私の身体の柔軟性は、私にとっては「ベスト」な状態です、いつの時でもその時のベストが私の身体に身についているだけ。

 

私が、他の人に比べて身体がかたいのは、「人と比較しない」ということに気づくため、さらに「身体の柔らかさにはいろいろなパターンがある」ということに気づくため、そして、「すべてのことは目に視えるものだけが真実なのではない」ということに気づくための大切な人生の道具だった、という事実がわかりました。

 

身体が人と比べてかたくても、心が一生かたいまま、ということはありません。身体が人と比べてかたくても、人として劣っているわけではありませんし、そのこと自体が恥ずかしいとかいけないことでもありません。

 

私と同じように身体がかたくて悩んでいる方がいらしたら、ご自分の身体に備わった、この大切なGiftを思い切り抱きしめてあげてみてはいかがでしょう。

 

私は、この「かたい」身体のお蔭で、「やわかい」身体の人にはわからないだろう心の苦しみをたくさん体験できたし、その結果、私にとっての人生の大切な真実にも気づかせてもらえたし、今まで「欠点」「コンプレックス」と自分で自分に「だめ出し」をし続けてきたそのことの意味にも気づくことができました。

 

私の人生にはこの「かたい」身体が必要だったということ。

 

もちろんこの後も引き続き身体のケアはしていきますが、例えばストレッチに求めることは私の中で塗り替わりました。また「心身の健康のために、定期的にストレッチ運動をしていかなければいけない」という想いもなくなりました。

 

身体がかたかろうとやわらかだろうと人間の価値に変わりはありません。人の、人生の課題はそれぞれなのですから。

 

「柔軟信奉」の方ももちろん尊重します。それはその人の生き方に必要なものですもの。けれど私はわが道を進みます。

 

たとえ「ガンコモノ」のレッテルをはられようと。「ガンコモノ」には「ガンコモノ」にしかできないさまざまな体験があることを知っているから。

 

身体をほぐす方法論として、エクササイズが有効な場合もあるでしょう。

 

一方、意識の変容で身体は変えられる。さらに深呼吸で身体を変えることも可能なのではないでしょうか。ケースバイケースで「身体」と「意識」のケアをしていこうと、それが「今」の私のベストだと感じるから。

 

いずれにしても「柔軟信奉」という社会通念、卒業です。

 

「柔軟」にも「ガンコ」「かたさ」にも同じだけ価値があります。そのいずれもがあっての私たちの命です。どちらも大切にしていきたい。

 

私たちの命はすべてがバランスですものね。

 

そうそう、当エッセイにはよく蝶々のお話が出てくるんですが、先ほども外出先でこのお天気なのに蝶々が空を舞いあがっていったんですね。蝶々って「柔軟性」の象徴でもあるみたいなんです。

 

自分の中にある「柔軟性」という宝物に気づいてね、が彼らのメッセージなのかもしれません。

 

「柔軟性」は外にある何かではなく、自分の内に創り出すもの、見出すもの。大丈夫。あなたなら、きっと、できるよ。

 

蝶々ちゃん、ありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

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