「頑固な知性」、統合

「頑固な知性」

 

この言葉を聴いてあなたはどんな印象を受けますか。もしも、「なんとなく、だけどわかる気がする」と感じるようなら、あなたの中にも「頑固な知性」が眠っているのかもしれません。

 

「あなたの中にも」と書いたのは、私の潜在意識にはかなりの「頑固な知性」が眠っていたらしいことに気づいたばかりだから、なんです。

 

私はいて座生まれ。最近知ったのは、いて座は柔軟宮と呼ばれる、文字通り「柔軟」な特徴があるらしい星座だということ。自分でも柔軟だったり、自由だったりは私の大きな特徴だと、それなりに嬉しかったりしていたのですが、どうやらそれと同じくらい「頑固で融通の利かないところもあるんじゃないか」とそんなことをふと感じるようにもなっていました。

 

ただ、それまではまさか、自分が頑固で融通が効かないなんて想ったこともなかったので、それはそれで結構な衝撃でした。

 

その、「頑固で融通が効かない」自分を認め、統合作業を進めていました。

 

すると今度は「粘着質」という言葉が浮かんできて、大笑いしてしまいました。なぜなら、私はずぅっとサッパリした性格だと信じ切っていたから。「粘着質」と「サッパリ」は表裏一体ですから、あたりまえのことなんです、私の中に「粘着質」な部分があるのはしごく当然。でも見ないふりをずっと続けて来たんですね。私自身の選択として。

 

その、「粘着質」な自分を統合していた時に浮かんできたのが「頑固な知性」という言葉。

 

私は直感が強い方です、右脳タイプ。ところがその直感に対して待ったをかける存在がいた、それが「頑固な知性」だったということのようで、なるほど、そうだったのか、とものの見事に腑に落ちてしまいました。

 

うんうん、わかる、わかると自分で自分に共感してしまいそうなくらい。

 

私の場合、まず右脳で何かを感じます。後から答え合わせをしてみると、その「直感」はたいてい当たっています。ところが右脳で感じたことに対して理屈で徹底検証をしようとする癖があるんです。理屈の部分においても納得が行った場合に、「やっぱり私の直感は当たっていた」と胸をなでおろす。

 

心配性なのか、あるいはそのプロセス自体を楽しんでいるのか。いずれにしても、一つの答えを結論づけるのにものすごく労力を必要とすることがあって、正直疲れてしまうことがたくさんありました。

 

その「正体」というか「主」が「頑固な知性」だったとわかり、ホッとしました。

 

私の「頑固な知性」は扱いが面倒なこともあるけれど、そのお蔭で、私の作品が生まれた、というメリットもある、大切な「私自身」であるということに気づけたからです。私の作品は吟味に吟味を重ねて創られたものばかり。制作、執筆期間は1年以上がほとんどです。他の作家さんに比べたらかなり長い方です。筆が進まないのではなく、何回も熟考し、何回も推敲を重ねるからです。

 

ところが、ここにきて私の直感はまるで水のようにさらさらと私の中に浮かんできてくれるようになりました。このスピードに「頑固な知性」はついて来れずに、悲鳴をあげていました、「もっとスロー・ペースで」って。

 

そのアンバランスは、当エッセイの執筆にもあらわれています。気づきに対して執筆がまったく間に合わない状況が続いています。

 

サクサクッと書けることもあれば、つっかえつっかえでなければ書けないことも出てきていました。

 

それは「頑固な知性」の意思表示だったのかもしれません。「もうエネルギー切れだよ」という。

 

「頑固な知性」の中には「こうあるべき」「こうすべき」という「べき論」がたくさんつまっています。そのエネルギー切れ。ということは。

 

私の中の「制限」のワクがドンドン外されている時なのかもしれません。

 

「頑固な知性」、男性性のエネルギーです。過去の私には大切な存在だったけれど、その頑固さは「今」の私には必要なくなってきた、ということなのでしょう。

 

私の中に住み続けていた頑固な職人気質の老人が「お役ごめん」とその身を潜めはじめてくれているようです。

 

もちろん、私の中の「一部」であることに違いはありません。追い出したりはしません、きちんと居場所を提供させてもらいました。

 

今までその存在にすら気づくことはありませんでした。良かった。こういうおじいちゃんが私をずぅっと見守ってきてくれていたという事実がわかって。

 

私は生まれた時にすでに祖父母は亡くなっていて、典型的な核家族で育ちました。夏休みに、おじいちゃん、おばあちゃんのいる田舎に遊びに行く、といった楽しみも経験したことはありません。

 

そんな私の中に意識として存在し続けてくれていたおじいちゃんがいたのですね。

 

確か父方の祖父は「頑固な職人」だったはずです。また、ひいおじいちゃんの一人に「頑固な医師」がいた、という話を今は亡き父に聴いたことがあります。父もまた「頑固な職人」でした。

 

なるほど、「頑固」は血筋、なのかもしれません。

 

その、「頑固」な血筋の私が「柔軟宮」と言われるいて座の時に生まれてきたことの中に、私の生きるヒントが隠されている気がします。

 

私は実は相当頑固なはず。それと同じくらい相当柔軟なはず。そのどちらかに傾くかは、私の心次第、ということなのでしょう。

 

「頑固な知性」の持ち主さん。まずはその事実を受け止めて、頑固になりすぎないように良い塩梅を探って柔軟に生きていきましょうね、お互いに。もちろん「頑固」にも「柔軟」にも敬意を払って。適当・適切な頑固は大切にしましょう。

 

私たちの資産ですから。その価値は「柔軟」と一緒、です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ページTOPへ戻る