「鼻がきく」
突然浮かんできたこの言葉。
どういう意味なんだろう ? なんのメッセージ ?
そっか、こういうことみたい。
私は人と比べると嗅覚が強い方です。強い、でいいのかしら。匂い、臭いに敏感。
そしてこれはどうやら「勘が鋭い」ということでもあるらしく、確かに「直感」は結構強い。
ところが。
先日お話したように、私には「頑固な知性」ががんばる癖があって、その「直感」に対して「待て」を出すことが頻繁にありました。
その「頑固な知性」はかなり強烈で、いつもいつも「待て」を出されるうちに、私自身、自分の「直感」が信じられなくなっていたんです。そのうち「直感」そのものも否定するように。
それはつまり「鼻のきく」自分を「頑固な知性」が抑圧していた状態。
謎が解けました。
私は以前重篤な花粉症でした。成人してからずっと。ものすごい量のお薬やサプリメントを活用しました。結果、花粉症は克服できてしまったんです。その大元は「意識」でした。くしゃみが出ても「あ、くしゃみだ」と感じるだけで「花粉症だ」とは思わないようにした、それだけ。
ウソのような本当のお話です。
脳が身体に「あなたは花粉症だよ」の指令を出さなければ「花粉症」はおのずと治る、という考え方を当時のヨガの先生に教えてもらったためです。
その実践のお蔭なのか、ここ5年くらい、花粉症は出なくなりました。時々季節の変わり目に数日鼻がグシュグシュすることはあるのですが、それは身体の調整をしているだけなので、しょうが湯を数回飲んで様子見をしているとたいていそのままおさまってしまいます。
ところが今年の夏は、何回も鼻がぐずりました。考えられるひとつの要因は冷房です。今年は「酷暑」「猛暑」の影響でどこにいっても冷房が強く入っていて、家にいる時は自分で調整できても、外出先ではそうは行きません。
その筆頭が、「スポーツ・クラブ」。身体を解しに行っているのに冷房がきつくて、「勘弁してよ、身体が冷えちゃうじゃない」状態が続きました。日々葛藤でした、行くか、行くのをやめるのか。先生にも何回かお願いをしましたが、調整はなされず。
そんな状態が夏の間中続いていて、しかも11月になった今でも冷房を入れる先生がいるんです。
花粉症は治ったはずなのに、ぶり返してしまったのかしら ?
いえ、これは冷房病、あるいは冷房アレルギーだよね。う~ん、いずれにしても身体が冷えているっていうこと ?
いろいろ想いを巡らせ、具体的解決法として「基本、キツイ冷房を入れる先生のレッスンには参加しない」という基準を自分の中に作りました。グループレッスンですから、いろいろな意見が出てくるんでしょう、先生に対して。だったら自分で自分の基準を作ればいいとの判断です。人の基準に合わせるのではなく。
私が参加するのはマットを使うヨガだったりストレッチだったりピラティスだったり。リラックスと同時に身体解しがその大きな目的。そこにキツイ冷房はいりません、空調は入っているわけですから。
5年間続けていた太極拳レッスンをここ数か月休んでいるのもこれが理由です。太極拳はマット運動ではありませんが、先生が外気温が冷えている日にキツイ冷房を入れていたので「寒いので調整を」とお願いしたけれど却下され、そこまでして続ける意味はないなと感じました。私の目的は「修行・鍛練」ではなく「リラクゼーション・解放・癒し」ですから。
そもそも太極拳って外で行われる性質のもの。それをスタジオで行うことは不自然と言えば不自然です。それはそれで納得のうえ参加していましたが、なぜ寒い日にキツイ冷房を入れてまで行わなければならないのか、なるほど、「レッスン卒業の時ね」と感じました。
そのことがキッカケで太極拳は今YouTubeを見ながら家でひとりでおこなっています。時々外でもおこなったり。
今の私にはそれが良い塩梅なのかとても気持ちいいので、あの時のキツイ冷房にもきちんと意味があったということですね、きっと。
少し脱線。「基本、キツイ冷房を入れる先生のレッスンには参加しない」、この基準を決めたのが数日前のこと。
そしたらきょう「鼻がきく」という言葉が浮かんできたのです。
なるほど、私は鼻がきくから、余計鼻にトラブルが出やすいんだ、とわかりました。この夏の鼻のグシュグシュは冷房のせいもあったけれど、私自身が「鼻のきく自分」を大きく抑圧していたからなんだ、と、私の心の問題がさぁっと浮かんできてくれました。
これに気づいたら、さっきまでぐずっていた鼻がいきなりスッキリ。鼻が通ってしまいました。
心のメッセージが身体を通して発信されていたんですね。なかなかその真意に気づけなかった。私の中の「頑固な知性」がそれを邪魔していたのかもしれません。けれどその「頑固な知性」を認め、受け容れることで彼らとの和解が成立したので、今度は「直感」がすんなりと働いてくれて、結果「直観」まで引っ張り出してくれたような気がします。
鼻のグシュグシュ、こんなことが要因の場合もありますよ、というお話です。
ちなみに社会的規律、他者が作った規律ではなく、自分自身の基準で規律を作っていくことを「自律」というのだそうです。他律ではなく自律。
もちろん他律があるから自律もあるわけですよね、どちらも同じだけの価値があるもの。
オール・フラット。
※ 追記
当エッセイを執筆していて気づきました。
私たちには「専門家」とされる人や「指導者」の立場の人の意見を「絶対的ルール」として尊重する心の癖がありますが、何かおかしい、と気づいたら、それは「自律」の機会のチャンスが訪れているということなんだな、と。
逆の言い方をすると「他律」的立場にある人がいるお蔭で私たち自身の「自律」が進んでいく、ということなのかもしれませんね。
そして時には私たち自身が無意識のうちに「指導者」的立場になることも出てくるということ。
おたがいさま。