いのちの洗濯 グアム編 4 

◇ ヨガとサラスヴァティー

 

いのちの洗濯。

 

リゾート・ヨガ・デビュー。

 

最近はリゾートのホテルで朝ヨガをプログラミングしているところが少なくない。

 

ヨガ歴13年なのに、今までデビューする勇気がなかったのは言葉の問題。それでなくても身体がかたいという個人的コンプレックスがあるのに、どうやって英語圏の先生とコミュニケーションがとれるのかまったく自信がもてなかった。

 

たいていの場合、ホテルのヨガ・インストラクターは英語圏の白人であることが多い。

 

なぜか今回はやる気満々。主人は文字通り、ヨガ・デビュー。先生に「ヨガの経験はあるか」と聴かれ、私は「ほんの少し」と答えた。もしかしたらキャリアだけなら私の方が先輩なんてこともあり得るかもしれない。それでも「はじめて」と答えるには気が引けた。

 

レッスンは日本人カップルが3組という形で行われた。ヨガ経験者は私ともう一人だけ。未経験者に囲まれて思い切り気分が楽になった。みんなできない、できなくてあたりまえ。私もその一人だ。

 

日本でのレッスンでわかっていたが、ヨガは先生の解釈でまったく別物になる。

 

アメリカ人だろう女性の先生は、参加メンバーがポーズができなくて戸惑っていると「ドント・ウォーリー」と声をかけ続けてくれた。

 

先生はバストも豊かだが、お尻もとびっきり豊かだ。いわゆる土偶的スタイル。先生のスタイルに「地母神」を感じながら、私はかなり手を抜いてヨガを楽しんだ。

 

先生にわが身を預ける。委ねる。

 

ヨガは本来ポーズではない、その人がその時に自分をどう感じるかが大切、というのが私の教わっているヨーガの先生の理論。

 

その感覚を一人味わっていた。その場での、そのメンバーでのレッスンは一期一会。できる、できないのこだわりなんてまったく不要だ。

 

ところが隣で苦戦している主人の姿を見ておかしくなった。主人は「ポーズの取れない、できない自分」と格闘していた。その姿はきっと私自身なのだろう。思い切り笑いがこみあげてきた。

 

できない自分を笑う。贅沢な時間だ。できない状況を受け容れる、大笑いしながら。

 

現実には大笑いは少しがまん。ポーズをとりながらなので微笑むくらいが精一杯だ。

 

セミ・オープンでのレッスンなので、風がほほをなでる。水の音が身体にしみいる。これこれ。私の求めていたヨガはこれなのよ、と充足感がふくらむ。

 

スポーツ・クラブのスタジオでのヨガ・レッスンは私には楽しみが少ない。なぜなら、自然と一体感を味わいたいという欲望を満たしてくれないから。もちろん気はつながっているのだろうけれど。

 

なるほど、リゾート・ヨガというのは快適だ。

 

レッスンの最後に先生がサンスクリット語でマントラを唱え始めた。私が過去に習った先生は8人。マントラを唱える先生は一人もいなかった。

 

西洋文化圏の先生だからこそ、東洋思想への強い思い入れがあるのだろう。

 

私は心の中でマントラを唱えた。

 

このマントラはきっと生命女神への祈りだ。

 

その時、私の中では生命女神とヒンドゥーのサラスヴァティーとが重なっていた。

 

サンスクリット語でサラスヴァティーには「水(湖)を持つもの」の意味があり、水と豊穣の女神とされている。

 

ヒンドゥーの教えに、入口は別々でもたどり着くところは一つ、というものがある。

 

目に視える形は異なっていても、すべてが一つの真実につながっている、という意味ではないだろうか。

 

アメリカ圏とも言えるグアムで英語圏の先生が行うヨガ・レッスンに東洋圏・アジア圏とも言える日本人ゲストが参加し、みんなでレッスンの締めくくりににサンスクリット語のマントラを唱える。

 

宗教の違い。

民族の違い。

思想の違い。

言葉の違い。

肌の色の違い。

 

それらを束ねる一つが存在していた。

 

レッスン終了後、「なんであんなに力入れてやってたの  ?  できない時は一つ手前に戻ればいいって言っといたじゃない ? それにしても身体かたいよね」と私。

 

「そういうさっちゃんだってめちゃくちゃ身体かたくて、いかにも雰囲気だけやってます、っていうのがみえみえだったよ」と主人。

 

やっぱりそうでしたか。

 

主人と私にとっては楽しいリラックス・タイムだった。

 

私は本当はヨガが大好きなんだ。

 

好きだけど、何かが怖くて、うまく身体を解せない。

 

その事実がわかったことが、今回のリゾート・ヨガでの収穫だ。

 

きっと私にはインド時代の大きなトラウマがある。

 

スポーツ・クラブでのヨガ・レッスンの卒業を考えていたけれど、たまに参加して、そのトラウマの正体を探るのも悪くない、と感じた。

 

ふと気になって今、調べてみてわかった。

 

インド・イラン語派と呼ばれる語族がいたらしいということ。今は対立関係にある民族がある時期、分化のない、一つだった時代を想わせる話だ。

 

大きな課題がここにあった。

 

生命女神、あるいはサラスヴァティーは何かを伝えたいのだろう。

 

サラスヴァティーは文学や学問、芸術の神さまとしても有名だ。私はそちらの縁でつながってくれているのだろうと感じていた。

 

もう一つ大きな縁があったようだ。潜在意識での縁はまったく予想がつかない。だから、おもしろい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※ いのちの洗濯 グアム編は1~6まで続きます

 

 

 

 

 

 

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