いのちの洗濯 グアム編 5

◇ 「必要悪」との和解

 

いのちの洗濯。

 

グアムは数年前に比べて「アメリカ色」が一層強くなっていた。

 

車の数、それに伴うインフラ整備。新車比率にもものすごいものがある。

 

サイパンがアメリカから見放された形で置いてきぼりにされている中、グアムはミクロネシアでの「ダントツ勝ち組」になっているらしい。

 

その状況をどうみるか。

 

資本主義がどうのとか、アメリカの物質至上主義がどうのとか、精神性優位を唱える人たちからすると、グアムの状況はある意味、目に余るものがあるかもしれない。グアムの食生活は現地チャモロ民族のそれも含めて、まさに「肉食文化」でもある。

 

今回の旅で感じたのは、そういうものの中に必ず「メリット」がある、ということだ。

 

基地がある。基地は良くないとする考え方。

 

一方、基地によって生活に潤いが生じている面も少なくないだろう。

 

過剰な物質至上主義は困り者だ。けれど過剰な精神至上主義が私たちを苦しめることはないのだろうか。

 

浮かんできた言葉は「必要悪」。

 

悪だけれど必要な存在、という意味だ。

 

そもそも、「善悪」の基準で考える「悪」は、本当は善が薄い状況なだけで、私たちが認識している「悪」とは異なるものだという説がある。

 

光と闇。

光と影。

ポジティブとネガティブ。

 

この、闇だったり、影だったり、ネガティブだったりは、光に転じる強い可能性を秘めたものなのではないか。

 

闇も影もネガティブも「光」の一部だ、ということなのではないか。

 

旅行中、いつもなら「光」に特化した本を読む私が今回唯一読んだのは、日本でのユング派の第一人者とされる河合隼雄著『影の現象学』という本だ。内容がむずかしく途中で挫折していたものを今回なぜか読みたくなった。

 

ユング理論は難解で、日本人にはあまり理解されないとの説を目にしたことがある。一方、東洋思想に造詣の深かったユングは、その「オカルト性」がクローズアップされることが少なくない。心理学という捉え方なら東西の両思想があって当然だと感じるのは私だけだろうか。

 

その、ユング派の一人である河合氏の著作は、ものの見事に「影」の世界を私のような素人にもわかるように説明してくれている。それでも一度は挫折した。むずかしいのはまちがいない。

 

「派」という言葉はあまり好きではないが、心理学の伝統では考え方の違いによる「識別」方法として「派」をつけるようになっているらしい。

 

誰々というラベルというわけではなく、東西の融合、光と闇の統合・融合理論だから私の潜在意識はこの本にひかれたのだろう。

 

この本を呼んだお蔭で「必要悪」という言葉が浮かんできてくれたのかもしれない。

 

たとえとしてグアムにおけるアメリカの位置づけを書いたことに他意はない。

 

真意はこうだ。仮に、「必要悪」とされる存在や事象があったとしても、それは必要だから存在しているわけで、識別として「悪」をつけることはあっても、審判としての「悪」ではないということが腑に落ちた。

 

キリスト教圏では悪魔は絶対悪だ。その、キリスト教圏の影響を大きく受けているグアムで、「悪魔もまた天使の一つ」を感じることができた。キリスト教の教えは信徒以外にも気づきのチャンスを与えるものになっている。違いがあるからこそ、気づけることが山ほどある。

 

すべてのものに存在価値があり、意義がある。

 

すべてに光と影が存在する。

 

そのいずれもに目をかける。

 

私たちの住む世界はどこまでも有機的だ。点や線で語れる、単一的なものではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※ いのちの洗濯 グアム編は1~6まで続きます

 

 

 

 

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