いのちの洗濯 グアム編 6

◇ 死と再生

 

いのちの洗濯。

 

留守の間、わが家を守ってくれていた愛犬・華実、愛猫・海・うみもまたいのちの洗濯ができたようだ。

 

華実は、ここ1か月くらい排便状況が良くなかった。元々デトックス王の華実は、快食・快便の見本のようなコだが、この夏の暑さもあったのか、それとも13歳という年齢のせいなのか、「フン切り」状態が悪く、時に軟便、水様便をばらまいていた。

 

便の状態が良くないだけでなく、腸内細菌のバランスの崩れから、便そのものの出来具合にも変化があらわれていた。数日のことだが、生まれてはじめて食欲が落ちた。ほぼ普通に戻ったのは旅行の直前。

 

一方、海・うみはやはり1か月ほど食欲が落ちていた。元気なのに、ごはんを食べない。以前食べていた缶詰はほぼ全滅。食材と新しい缶詰でなんとかつなぎつなぎの状態だった。どこも悪くないのに食欲がない。

 

正直、頭を抱えた。

 

二匹とも生命力が強い方だ。そのせいなのか私がヒーリング・エネルギーを送っても何も異常は感じられない。つまり、どこも悪くない。元気なのだ。それなのに一方は便、一方は食にばらつきがある。

 

見方をかえ、これは私の「手渡し」と「受け取り」がうまくいっていないというサインなのだろうと感じていた。彼らは私の心を映す鏡だ。

 

旅行から帰ってきたら、華実、海・うみ共に見事なまでに快食、快便を取り戻していた。

 

驚いたことに、ベランダの花もいのちの洗濯をしていた様子だ。

 

今まで元気のなかったパンジーが次々に花を咲かせている。

 

四季咲きのピンクの八重の薔薇の色が一段と鮮やかになっている。

 

夏の花であるペチュニュアもハイビスカスもますます元気だ。

 

なるほど、すべての元凶は私の「気」だった。

 

私は自分ではさらっとしたタイプだと思っていたが、実はじっとり自己満足系の愛を放射していたのかもしれない。

 

華実と海に限って言えば、彼らは少し突き放された方が動物としての本来のポテンシャルを発揮できるタイプなのだとわかった。

 

依存や癒着、言葉を置き換えれば人間本意の、けれどそうとは気づかない溺愛ではなく、適度、適切な愛しか望んでいない。

 

彼らがベストの状態を保てるのは、私たちと適切な距離感を保てた時。

植物も一緒だ。

 

最低限の水やりだけで、太陽の恵が彼らの命を支えてくれる。

 

そうなっているのだ。

 

ペットと呼ばれる動物に病気が増えているのは、家族、つまり飼い主の心身魂のバランスの影響を彼らが受けているから、という自説が証明された。

 

飼い主が自立・自律傾向に傾いていればいるほど、彼らは病気にかかりにくくなる。

 

飼い主が依存・他律傾向に傾いていればいるほど、彼らは健康を害しやすくなる。

 

そうできている。

 

もちろん、健康だけが良くて、健康を害している状況は悪い、ということではない。いずれも必要だから起きている事象に過ぎない。また、すべての人に「自立」があり「依存」がある。「自律」があり「他律」がある。これらはすべて光のグラデーションの違いだ。何かが優れていて何かが劣っているというものではない。

 

その、ちょうどうまい塩梅のところを探るためのふり幅が誰にでもある。誰でもいつでも調整の最中だ。その状態が時にペットの体調としてあらわれることがある。私たち人間は鏡に映さないと自分の姿を認識できないことが多い生き物だからだ。

 

この事実を受け容れるのには勇気がいる。

 

「そんなはずはない。だって私は心の底から彼らに愛情を注いでいるもの」

 

たいていの人はそう思うだろう。私と同じように。

 

その愛のベクトルが意味を持つ。その愛が自身の欠乏感や無価値感から出ている時は、彼らに負担となる何かが加わる。

 

欠乏感や無価値感がいけないのではない。

 

それらをいけないものとして自身の中に抑圧するから、そのエネルギーが彼らに映しだされてしまうのだ。この仕組みをハートで受け容れている人は限られている。専門家においても同じだ。マインドがそれを邪魔する、その事実にすらなかなか気づけない。私自身も。

 

顕在意識と潜在意識。

 

光と影のようなもの。ボジティブとネガティブのようなもの。

 

私たちの自己満足的愛は、顕在意識の世界。

 

「こんなに愛してる」

「こんなに大事にしている」

「こんなにがんばっている」

「こんなに手をかけている」

 

それだけではない、闇の領域にも目を向ける。

 

そのことの意義を華実と海が私に教えてくれた。

 

私の自説は、彼らが身を挺して捧げてくれているもの。これを人々にどう伝えていくかが私の当面の課題なのだろう。

 

医療信奉。

獣医師信奉。

専門家信奉。

 

すべてが私の一部だ。それらを統合して、新たな私を再生、クリエイトするために。

 

生命女神の正体がわかった人もいるかもしれない。

 

あの像は、すべての人が創造の神なのだ、という「地母神」概念の象徴ではないだろうか。

 

男性であっても「女神」なのである。女尊男卑ではない。役割の違いに過ぎない。納得が行かなければ「男神」でもいい。神には「女性性」も「男性性」も備わっているので、必要に応じて見た目の違いがあらわれているだけだと言いきることもできる。「女性」だの「男性」だのとこだわる必要はない。

 

創造の女性的側面と男性的側面の統合・調和・融合による「新たな神」の誕生。

 

望むと望まざるとにかかわらず、すべての命に降り注ぐ恩寵のあらわれ。たまたま、今回の旅ではそれがリアルに感じられた。

 

旅行から戻り、私に届いたメッセージは「自然回帰」。

 

自然の一部としての命の輝きを放つ。

自分の中に潜む「自然さ」のあらわれ。

 

より「自分」らしく「自然体」で、大きな一つの一部として人生を舞う。

 

いのちの洗濯のおぜん立て。

 

ありがとうございました。

 

今回は古い自分が死んだことで、過去と決別し、新たな風がハートに吹き込む体感を楽しむという恩恵にあずかった。

 

新しい生への信頼が、芽を吹き始める。

 

そのステージとしてグアムが選ばれた。いや、ミクロネシアが提供された。

 

ホテルのバルコニーからからみえた木々や草花など植物のグリーンはどこまでも美しくハートに優しかった。グリーンは自然そのものの象徴だ。カラー・セラピー的にみるとハートの開花の意味もあるらしい。

 

私の魂のふるさとはサイパンからミクロネシアへと拡がった。顕在意識でのサイパンから潜在意識でのミクロネシアとの縁へとつながったのだろう。

 

当然それは全地球とつながる。世界は海続きだ。世界は地続きだ。この地球は本当はどこにも境がない、すべて一つにつながっている。その境を創ったのは、人間の想像力・創造力に他ならない。

  

当エッセイは2018/12/03に執筆したが、アップは12/05になった。

 

パソコンに向かい新たなメッセージを受け取る。

 

私は自然を恐れていた。大好きなのに、心の底から自然が怖くて仕方なかった。ナチュラルに生きることに恐れをなしていた。

 

こんなにも潜在意識は複雑だ、さまざまな可能性を秘めている。

 

こうして私の意識の死と再生劇は、一旦幕を閉じる。

 

新たな幕が日常で開きはじめるのと入れ替えに。

 

また一つの死と再生。

 

このサイクルのお蔭で私たちはどこまでも自然に、ナチュラルに生きられる。

 

死は生の一部であり、生は死の一部なのだから。

 

死の受容。生の受容。

 

「大丈夫だよ」

 

 「ケ・セラ・セラ」。完ぺきなるシナリオの元に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※ いのちの洗濯 グアム編は1~6まで続いています

 

 

 

 

 

 

 

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