自分のいやなヤツさ加減がどんどん好きになる

いやなヤツさ加減という言葉があるのでしょうか。

 

私の脳はこの言葉をバカさ加減と同じような感覚でとらえています。

 

この「いやなヤツさ加減」が大好きでたまらない、そんな自分があらわれていておかしくて仕方ありません。

 

私には欠点があります。

長所もあります。

 

人間ですから、長所は得意げに、欠点はできるだけ目を向けないようにしてきたようです。

 

その、「欠点」の部分、劣等感のレベルではなく、人からみたらいやなヤツかも、と思えるところが次から次に浮かんできます。

 

その一つ一つが愛おしく感じられて。

 

例えば私は「俗な自分」をかなり抑圧してきたことに気づきました。

 

俗なんです、とことん。

 

それが、なぜかかわいいんです、愛おしいんです。

 

肉体があるのだから「俗」なところがあってあたりまえ。それを「私は俗は超越しました」みたいな想い違いをしていた時期があるのではないかと痛切に感じました。あるいは「私は意識が高いんです」みたいな「ああ勘違い」。

 

そういうものがとめどもなくあふれてくる感じで、ものすごい解放感です。

 

それら私の欠点は見方をかえれば長所になることもあります。

長所は見方をかえれば短所・欠点になることもあります。

 

すべてその事実を視る人の「意識のフィルター」によって変わります。

 

私のことを「穏やかで優しい人ね」と感じる人もいれば、「なんか、すかしててヤな女よね」と感じる人もいる。それらは、その、視る人の潜在意識によるものです。

 

ということは、私の長所は私というフィルターがかかってみえるもので、誰にでも同じようにみえるわけではありません。絶対的価値ではないということです。

 

とすれば、私の欠点も私というフィルターがそうみているだけで、もしかしたら、「えっ ? それってあなたの魅力だよ」ととらえてくれる人もいるかもしれません。

 

私の「いやなヤツさ加減」は、私の価値観でいうと「いやなヤツ」だけど、別の価値観の人からみたら、「全然、素敵なところよ」となる可能性もあるわけです。

 

自分で勝手に、ここは良いところ、ここは悪いところと決めつけてきただけだったんだなと思ったら、するすると何かがほどけてくれました。

 

大体、「いやなヤツ」=「悪」と決めること自体、制限付きの意識ですよね。

 

「いやなヤツ」には役割があって、もしかしたら反面教師という側面で人の役に立っているのかもしれません。

 

誰かが「いやなヤツ」になってくれるから、私たちは「ああなってはいけないわ。気を付けなくては。あの姿は私自身なんだと思うから」と自分を顧みるチャンスをもらえるわけです。

 

みんながみんな善人だったら、その人が「善」であることさえ認識できなくなってしまいます。

 

すべてが「愛の人」ですべてが「無条件の愛」に包まれて生きていたら。

 

大前提はそうでも、その事実を認識するためには、必ず「悪」の人や「影」の人、「闇」の人を感じたり、あるいはそういう意識を感じることが必要です。

 

私は私の中の「いやなヤツさ加減」も私の資産なんだと感じました。

 

それがあるから、そうでない自分を感じることができる。

それがあるから、そこに特化しすぎないように自分で自分を調整することができる。

それがあるから、その対極にある自分の何かをあらためて大切に感じることができる。

 

万が一、私に長所だけしかなかったら、私の成長はここでストップしてしまいます。

 

それって生命の終わりの時、という意味ではないでしょうか。

 

愛犬・華実とお散歩をしながら、自分の中に浮かんでくる「いやなヤツさ加減」に向き合っていたら、ものすごく幸せな気持ちになりました。

 

こんなに、一見「いやなヤツ」でも地球は私のすべてを受け容れてくれる。ここがいい、ここが悪い、なんて言わないで。自分自身が自分のすべてを受け容れないなんて、なんてもったいないことをし続けてきたんだろう、って。

 

なんとなくでも、「うん、わかる、わかる」と感じる方は、思い切って自分の「いやなヤツさ加減」を味わってみてはいかがでしょう。

 

ものすごいご褒美をいただいた気分です、私の場合。

 

「抑圧って、本当にすごいんだな」と、私たちの潜在意識のあり方に直面することができました。その抑圧にだって魅力が隠されている。

 

すべてに素晴らしい価値があります。

 

すべて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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