私の感性の扉を開いてくれたのは会社の上司だった

人にはそれぞれの感性があります。

 

感性を研ぎ澄ます。成長過程で少なからず人の助けを受けながら自分自身の感性を磨いていきます。

 

たいていの場合、両親や祖父母、あるいは学校の先生だったりするのでしょうが、私の場合は違いました。

 

社会人になって、おつとめをして、直属ではなかった部署の上司、先輩が私の感性の育ての親だったと、たった今気づきました。

 

私は小学校に上がるまでは野生児で、お勉強なんかほとんどしたこともなく、母が本を読んでくれたり、音楽を聴かせてくれたり、お絵かきのチャンスを与えてくれたりはまったく記憶にありません。もしかしたら忘れているだけかもしれません、両親は他界しているので確認のしようがありません。

 

今の小さいお子さんのような英才教育とは無縁の環境で育ったのです。いつも裸足でスニーカーを履き、兄や兄の友達に混ざり広場やはらっぱを飛び回っていました。女の子が好むおままごとやお人形さんごっこは、数えるくらいしかしていません。塗り絵を多少したくらいでしょうか。

 

小学校に入り、たまたまお勉強が少しできたばっかりに、私は優等生候補の仲間入りをさせられました。何かが違うと感じながら、その生活は社会人になるまで続いたのです。

 

リクルート活動をしていた時、私は絶対にクリエイティブな仕事をしたいと思っていて、お堅い会社はコネがあっても避けました。絶対自力で入ってやる、と。

 

その結果、ラジオ局へ入社が決まり、ただし配属先は子会社でした、大きなメディア・グループの制作部門・イベント部門。

 

それなのに私が配属されたのは秘書の兼務でもある人事部でした。

 

私のこの見た目が災いしました。従順そうな、おとなしそうな優等生。

 

すぐに仕事に不満を感じました。だって私はクリエイティブな仕事がやりたくてこの会社に入ったんだもん。

 

秘書や人事の仕事にもクリエイティブな側面はありますね。ただその時の私は「制作チーム」に入りたかった。それしか頭にありません。

 

無我夢中でした。負けず嫌いがムクムクと頭をもたげ、定時にタイム・カードを押し、その後は毎日スタジオに通いました。もちろん残業代なんてもらえるはずもありません。

 

とにかくスタジオに行けば、何かがわかるのでは、と。

 

そのスタジオのリーダー、プロデューサーであり、ディレクターのポジションについていた男性が、「教えない、徹底的に盗め、身体で覚えろ」というタイプの人でした。手取り足取りなんてとんでもない。

 

すぐに逃げ出すと思っていたんでしょうね。私はあきらめませんでした。

 

とにかく見る、見て見てスキルを盗むのです、その人から。

 

どうやら私が本気らしいと気づいたその人は、企画書を創るチャンスを与えてくれました。これもお手本なんてゼロ。自分で考えろ、と。

 

そのうち、番組の原稿を書くチャンスもくれました。番組で選曲をしたりアナウンサーにQだしをするチャンスもくれました。幸い、年配の女性アナウンサーが目をかけてくれて、すごくかわいがってくれたんです。また技術スタッフも、「根性あるね」と私のやる気を認めてくれるようになりました。

 

完全なる二重生活です。人事部で人のお給料を計算し、秘書業務や雑用をこなし、定時になると番組スタッフの一人として現場を飛び回る。楽しくて楽しくて仕方ありませんでした。今の時代だったら、すぐにクビになったでしょう。

 

そうしているうちにその上司と親しくなり、その上司は私にたくさんの音楽を聴かせてくれました。たくさんのコンサートや映画試写会やイベント、パーティに連れて行ってくれました。

 

入社から4年。もう十分だ、と感じ、私はフリーとして独立します。仕事のほとんどがその上司がらみのものでした。大きなイベントの企画・運営スタッフとして、いつしか、私はその上司の右腕的ポジションに落ち着いていました。

 

それは私にはものすごいプレッシャーで、私は身体を壊し、しばらくしてまた会社づとめをします。そこではまた優等生の私を演じながら、けれど私の本質は黙ってくれているわけではなく、何回もクビを経験しました。

 

もういい。そう思い、再びフリーの道へ。女性にとってフリーの道はいばらの道です、少なくとも私のいる世界では。

 

その後も私は優等生の物書きをつとめます。

 

ここへきて、私の右脳と左脳のバランスが本来の姿に近づいてきて、もう十分、再び、私の感性を歓びとして感じてくれるチームと共に作品を創りたい。その時がきた、と。

 

そう感じたら、ハラハラと何かが崩れ、そういえば私はあの上司に感性の扉を開いてもらったんだ、今の仕事のベースはすべてあそこにあったんだ、あの時のチーム・メンバーは私の家族だったんだ。時に父として、時に母としてあの上司が私を見守ってくれていたことに涙があふれてきました。仲間はみんな兄弟だったのです。癖の強い兄弟たち。彼らとは家族以上に濃い時間を過ごしました。イベント会場ではいつもユニフォームを着ていました。プライベートでもチームでそこいらじゅうに遊びにいって。その中で私は一歩も譲らず、女だてらに生意気三昧でした。

 

「いいものを創りたい」

 

私の気持ちはそれだけでした。今思うと、あの時の私はカッコよかったのです。結果的にプレッシャーには負けたけれどチーム・ワークの中で自分の本心をさらけ出して生きていたのですから。

 

私のこの右脳の特質はあちらからいただいた貴重な宝物です。眠らせておくわけにはいきません。

 

その目を覚ましてくれたのがあの時のあの上司だったなんて。私は自分の力だけでここまで歩いてきたわけではなく、さまざまなご縁の中で、そして感性の扉担当の魂ともきちんと出逢って、そしてやっと今に至ったのです。

 

野生児だった子供時代。もしかしたら両親は私の右脳の力を見抜いていてくれたのかもしれません。この子はヘタに自分たちが手出しをしない方がいいと。

 

私は職人の家に生まれました。職人だった父は「お前の手と指はとても職人の娘のそれではない」と言っていました。

 

私に対する予言だったのでしょうか、「お前は職人ではないのだよ」という。

 

両親は、私に必要なメッセージを暗号化して私に伝えてくれていたのかもしれません。両親のためにも優等生卒業の時だと確信しました。

 

すでに始まっていたのですね、私の新しい生活が。

 

あの時代が私のベース。確固たる土台として蘇りました。再三の「グラウンディング」のメッセージの真意はここにあったようです。

 

さて、これからは音楽三昧。音楽によって私の右脳にスイッチが入るようになっていたことをはっきりと思い出しました。左脳君だって納得してくれるでしょう、私の右脳のがんばりを一番近くでみていてくれたベスト・パートナーなのですから。

 

 

 

 

 

 

 

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