より、等身大、自然体に

私の内なる先生が変わり、あちらとこちらの世界の境がなくなった感じが一層強くなっています。

 

そのお蔭なのか、私自身に変化があらわれました。

 

自分を大きく見せようという意識がかなり減り、私は私、良くも悪くも私のまま、という気持ちが膨らんでいます。

 

例えば特別意識より、みんなと同じ、という意識。ただしこの同じは、価値のことです。みんなと同じ = 没個性という意味ではありません。私が特別な存在ではないように他の人も特別な存在ではない。逆に言うと、他の人が特別であるように私も特別な存在、という感じです。

 

虚栄心が少なくなったようです。虚栄心の裏にはコンプレックスが隠れていて、おそらくそのコンプレックスが減ったのではないかと。もちろん劣等感はあります、コンプレックスだってゼロではありません。でも必要以上にコンプレックスを感じる感覚が和らいでいます。

 

ある本を読んでみました。何度目かの本です。

 

最初は私の知らないことがたくさん書いてあって圧倒される感覚がありました。きょう、パラパラっと読み返してみたら、確かに情報量が豊富で内容も斬新で素晴らしいけれど、「すごい、この人」という羨望感はわきません。その人についている「ラベル」「肩書」を取り外して、一人の人、として読むことができました。

 

そのお蔭なのか、素晴らしい肩書がついている人の本だからと言って、ウノミにしなくていいんだな、という感覚がストンと腑に落ちました。「権威」ある人であっても、一人の人間に違いないのです。そこに書かれたことがすべて正しいわけではないし、絶対、ということもない。正しいと思えることもそうでないと思えることも混じっていて、しかも、本の前半と後半とでご自身の理論が破綻しているところも感じられて、すごく人間味あふれる人なんだと。それを「ラベル」で判断していたのは他ならない私自身。これはどういうことかと言うと、私の中に「権威」を絶対視する気持ちがあって、どういうわけかそれがなくなってしまった様子なのです。

 

あえて「神」の名を出したり、高次の世界を強くにおわせたり、自分はその道のマスターなんだ、というカラーを打ち出したり、専門用語を並べたり、人のこころをくすぐるような文章を書いたり。

 

まったくハートが動かない、「わかりました、でもどうでもいいです、そういうことは」みたいな感じです。それよりシンプルに真実と思えることを正直に書いている人の方が数段気持ちいい。なるほど、おそらくそういう人は等身大の自分をさらけ出して、自然体で書くということを無意識のうちに自然に行っているのでしょうね。

 

人が何に対して、どう感じるかは、本当に人それぞれです。

 

どう書いても伝わる人には伝わるし、伝わらない人には伝わらないんだな、テクニックではないんだ、ということが明確にわかりました。

 

今までの私は自分を過小評価しすぎるあまりに虚栄心が膨らんで、時に自分を大きく見せようと文章を書くことがありました。

 

ここ半年くらいでしょうか、誰がなんと感じようと、媚びる文章はやめようと決心して、自分の中から浮かんでくる言葉をシンプルに書き連ねることができるようになったのは。

 

その感覚が私の真ん中で「私自身」として定着してくれたみたいです。

 

私のハートには、より等身大、自然体の言葉がダイレクトに響くようになりました。誰が書いているのか、というより、何を感じている人なのか、どれだけハートが開かれている人なのか、が私にとっての大切なポイントに変わりました。

 

同時に私自身、どれだけ等身大で、どれだけ自然体で自分を表現できるのか、どれだけハートを開けるのか、そんな自分自身の課題が提示されたような気がしています。

 

背伸びをして自分を大きくみせようとする必要はないんだよ。小さいからこそ視えるものがあるんだから。

 

自分の目線で、世の中を視る。

 

自分の目線で、自分を表現する。

 

これができるようになったら、人の視線なんてきっと気にならなくなるはず。

 

誰かとの比較より、本当の自分自身との比較。

 

目線は完全に「中」。

 

視るところが絞られると、エネルギーの分散も少なくなって、より自分自身とつながりやすくなりそう。

 

まず、自分。

 

 

 

 

 

 

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