女性性の抑圧、その原因の一つは「羨望」エネルギー

女性性の抑圧については、何回かお話していますね。

 

私たちには女性性と男性性が備わっていて、たいていの人は女性性を抑圧し続けて生きていると。私たち、の中には男性も含まれます。

 

私自身、女性性の抑圧傾向が強く、もちろん自分ではそんなことは思ったこともありませんでした。数年前、重篤な子宮腺筋症になって、医師から子宮と卵巣全摘の指摘を受けた時に、いろいろ調べているうちにそのことに気づいたのです。

 

結果として、私は手術は受けず、漢方薬と食の改善で、医師から「奇跡」と言われるような形でその病をおさめることができました。それでも意識としての「女性性の抑圧」傾向は残っているだろうと感じていました。

 

女性性の抑圧、の一つの原因は、私の場合、母の胎内にいた時の記憶にあります。といっても私自身に記憶の意識はないのですが、多分こういうことなのだろうと感じたのは、母の胎内にいる時、私は母の不安や恐れを感じ取ってしまった。母は、私を妊娠したことに対する不安が大きく、その中に私が女の子だったら困るな、という意識もあったようだ、ということ。

 

両親共に他界しているため、私個人の推察の域をこえていない話なんですけど。

 

おそらく、私はへその緒が巻き付くなどのトラブルもあって、自分の女性性の否定と同時に、自分の存在価値を根本的に否定していたのではないかと感じているのです。

 

このように、母親の胎内の記憶、あるいは出産時の記憶などが、子供の人格形成に影響を及ぼす、という考え方をバース・トラウマと言います。この、根本のバース・トラウマに向き合うことで、自尊心や自己受容力が高まる。そんな考え方を知ったのは、確か昨年のことでした。

 

リバーシングと言って、その意味は「再生」「再誕生」などをあらわすものらしいのですが、誕生の記憶の時点に戻るというセラピーを行うんだそうです。

 

私は、セルフでなんとかそれを試してみたいと思い、完ぺきな方法とは思えませんが、母の胎内で感じただろう自分自身の意識を一つ一つ探っていく、という方法を取り続けてきました。

 

ここ数日間、その、何回目かの大きな波がきています。その中で女性性の抑圧に関して、もしかしたら男性からの女性に対する根本的羨望意識があるのではないか、と感じたのです。羨望とは、「妬み」などを伴う、強い意識を言います。似たような言葉に「嫉妬」があるのですが、「嫉妬」の場合、恋愛感情に限っている、との説をどこかで目にしました。

 

男性の場合、マザー・コンプレックスのない人はいませんね。そもそも、が女性性への強い欠乏感があるのではないかと。それがこうじると女性性への強い劣等感を抱くようになる。それが「羨望」へと変わることによって、結果として女性蔑視のエネルギーが生まれるのではないでしょうか。

 

その、女性蔑視の部分を母が自分の心身に刷り込んでしまっていた。それを私が受け継いでしまったのではないかと感じました。そう、母自身が自分の女性性を強く抑圧していたのでしょう。

 

女性だから正当な評価を得られないとか、女性だからこの世に生きる価値がないとか、女性は弱くて非力な存在だ、とか。

 

その感情を感じていたら、喘息なような咳と痰の嵐。

 

デトックスだ。

 

前エッセイでお話した、白い花たちのメッセージの「純潔」、さらに私自身が感じた「浄化」「クリア」のイメージが私の心身魂の中で起こってしまったのです。

 

これほどの咳と痰は、よほどの抑圧がなければ出てくるはずがない、と感じました。一方で、ものすごい大浄化が起ころうとしているとも感じました。

 

逃げるわけにはいかない、こうなった以上、身体のおもむくままに任せるしかありません。

 

そんな中で突然浮かんできたのは、「マグダラのマリア」という意識概念。私は宗教には疎いし、キリスト教にも関心がないので、意味はわかりませんでした。物悲しそうな、本当につらそうな悲壮感、無力感、無価値感が私の中にあふれてきます。

 

あまりにもヘビーなエネルギーについにダウン。しばらくして目が覚めたら、なんと3時間も私は意識を失っていたようです。

 

この感情の嵐、は女性性の抑圧の解放です。母が抱いていだろう、そして私自身も抱いていた、さらに集合意識ともつながってしまったのでしょう。

 

多分、私は当初の想い「リバーシング」に成功した。同時に、集合想念としての「女性性の抑圧」の統合も行ってしまったのではないかと。

 

シンドイ状況でしたが、なんとか起き上がって「マグダラのマリア」について調べて、えっ、そうだったの ?  とビックリ。

 

私の知識の中では、「マグダラのマリア」とは「罪深き女」とされる「娼婦」である、という一般的概念を超えていませんでした。

 

違ったのですね、何が正しいかは別にして、「マグダラのマリア」は、イエスの最高の女性使徒だったらしい、その関係に、男性使徒のペトロが「羨望」の意識を抱いていたらしい、と、そんな見解が多くの書物で明らかにされていたのです。

 

「マグダラのマリア」はその後のキリスト教の中で、貶められる存在へとなっています。

 

その大元は、もしかしたら男性使徒によるマグダラのマリアへの羨望意識。なんでも、イエスのいうことを一番理解できたのがマグダラのマリアだったというのです。

 

これを一般的なコミュニティーに置き換えて、こんな捉え方はできないでしょうか。

 

カリスマ性の強い、ある人物のところに複数の男女が集まり、そのうちの「誰か」だけがそのマスター的存在の言葉を理解できるとしたら。そこに人としての「羨望」の感情が生まれるのはごく自然なこと。その対象が女性だったら、男性からの羨望意識はことさら強くなる。その結果、「羨望対象」をつぶしてしまえ、と感じることは、心理学的にみると、当然な流れかもしれませんね。

 

それが反対の場合もまったく同じ。女性が男性に対して「羨望」を感じ、その羨望対象をつぶしてしまえ、と感じることもごく自然な流れです。

 

あくまでも心理学的に視た場合、のお話ですので、実際のことはわかりません。興味のある方は、ご自分で調べてみてはいかがでしょう。私の勝手な解釈かもしれませんし、まったくの勘違い、ということもあります。人それぞれの捉え方があります、ご自身の感覚が一番です。

 

仮に私の仮説が当たらずとも遠からじだったら、男性はもちろんですが、私たち女性も、まずその事実を受け容れ、羨望という意識エネルギーが、こんなにも膨れ上がってしまうそのことを受け容れることが大切なのかもしれません。そのうえで、他者との比較にわが身を置くのではなく、やはりすべては自分の内にあると、認識をさらに深める。

 

女性の中にも女性蔑視の意識エネルギーが生きています、今なお。

 

女性も男性も蔑視すべき対象ではなく、共に尊重し合う対象なのではないでしょうか。

 

女性性の抑圧、は根深い意識であり、だからこそ強いエネルギーでもあります。私の中からすべての抑圧が出て行ってくれたか、今のところはわかりません。ただ、もしかしたらこういうことで女性性の抑圧が続いているのかもしれない、という何らかのヒントは視えたので、今後新たにこの感情がわいてきた時の対処は今までよりは簡単になるような気がしています。

 

意識エネルギーは、実はすべての命とつながっている、という考え方をするのが深層心理学のユング理論です。私はユングの信奉者ではありませんが、たまたまこの考え方がハートに響くので、とにかく出てきた意識は感じきる、という方法論を取っています。

 

今回、もしこれで私の「リバーシング」、つまり再誕生がうまくいったとしたら、それ自体、大きな体験、体感です。

 

この体験をするための、母との縁。

 

実際に母がどんな哀しみを抱いていたのか、どんな不安や恐れを抱いていたのか、今となっては知ることはできません。もしかしたら、という推察、仮説の中で少しだけ母との距離感が縮まったとしたら、それはそれで私にとってはとても嬉しいことです。

 

母が私を産むことに強い不安を感じていたことは多分事実でしょう。けれど同じくらい、私を愛おしく感じていたことは心理学的にとらえると、まったく自然なことなのです。

 

私たちの意識には、必ず「裏と表」があります。それが一対になって一つの感情につながります。

 

女性性の抑圧、を感じることは女性性の解放、につながります。女性性の解放、は女性性の復権にもつながります。同時に男性性の復権にもつながるのです。

 

この世の中は、バクッとしているようでもすべて緻密に計算しつくされて創られている、という考え方があります。

 

「マグダラのマリア」という概念が浮かんできた時はビックリしたけれど、今の私だから理解できる何かがあったのかもしれません。「今ならわかるよね」の想いと共に浮かびあがってきてくれたのでしょう。

 

白い花のプラスのメッセージは『純潔/真実/共有』でしたよね。

 

「マグダラのマリア」に課せられた一般的なイメージが白い花によって、より真実に近い光を放てるように、その意識感覚を共有できるように、と純潔な光に塗り替えられたとしたら。

 

白い花と私はその作業を共に行ったパートナーということにならないでしょうか。

 

お互いの協調のエネルギーの中で、歴史の記憶が少しだけクリアになった、クリアにできた、という、歓びの体験。

 

私たちの仲間は人間だけではない、ということ。

 

すべての存在が味方になり得る、ということ。

 

それにしても今回の大浄化劇は、すごかった。あんなにも淀んだエネルギーが私の中を通り抜けていった事実に感激しています。

 

私たちの命の力は、半端ではない、ということ。

 

これが女性性の実力なのかもしれませんね。「受容」という力です。誰にでも備わった大いなる、力。

 

 

 

 

 

 

 

 

※ 追記

 

当エッセイ執筆は流れるように、とは行きませんでした。何回も何回も書き直しの要請が入りました。

 

また執筆終了直後、パソコンがいきなりフリーズしたのです。何をやっても動かない。

 

誰かが、当エッセイの執筆を心待ちにしていてくれたみたいですね。

 

女性性の抑圧は、おそらくこの時代の大きな課題の一つです。

 

どなたにとっても重要なこと。

 

あなたなりの解決の仕方があるのではないでしょうか。私にとっては、これが一つの解決法へとつながりました。

 

 

 

 

 

 

※ 追々記

 

当エッセイは2019/02/25にほぼ執筆できていました。アップがなかなかできず、翌2月26日のアップになりました。当エッセイ執筆前に、大きな解放が起こりました。

 

「私はさもしい女」「私はあさましい女」「私は低俗で下卑た存在」「私は非力で卑小な存在」

 

これらの意識が次から次に浮かんできて、同時に咳と痰。

 

どうやら、私の「女性性の抑圧」は、ものすごく深いところとつながってしまったようです。その分、解放のエネルギーは強く、その後の浄化、癒し、の状態が強く感じられるようになります。

 

本日「26日」は、あちら在住愛猫・海・かい、とこちら在住愛猫・海・うみの「月誕生日」。

 

彼らからのGiftはいつもスケールがでかい。

 

アップ直前、耳が痛くて仕方ありません。耳からまた何かのエネルギーが解放されるのかも、です。

 

 

 

 

 

 

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