子どもを授からなかったという劣等感

外出先で、同じマンションの人に出逢いました。

 

その人は、赤ちゃん連れのママさん、つまりその人からみるとお嬢さんと一緒です。

 

瞬間、「私はもしかして子どもを授からなかったという劣等感を感じていたのかな」と、そんな想いが浮かびあがってきました。

 

これは潜在意識を自分で読み取っている感覚です。今まで明確にそう感じたことがある、ということではありません。

 

同時に、「私は子どもは授からなかったけれど、自分の好きなことに時間やお金を使える生活だ」といった、一種優越感のようなものも浮かびあがってきました。

 

これも潜在意識です。

 

なるほど。

 

この二つの意識があるとして、同時に感じてしまうとそのエネルギーが相殺されて、私の意識エネルギーのアップ・ダウンはなくなります。

 

つまり最初と同じ「フラット」な位置にこころが落ち着いているということ。

 

今までこんなことは感じたことがなかったのですが、自分の潜在意識を「こうかしら」と読み解こうとすると、案外私たちの気持ちは落ち着いていられるものなのかもしれませんね。

 

その後で浮かんできたのは、「この人にはお子さんがいて、お孫さんがいる。私には子どもはいない」、それだけでした。

 

ここにジャッジはありません。どちらが上とかどちらが下とかもありません。そもそも、子どもがいる、いない、で女性の価値が変わると思いこまされている、その認識自体が「ゆがんでいる」のではないでしょうか。

 

子どものある、なしで女性の価値が変わると感じているとしたら、それは女性は子どもを産む機械、装置だと受け容れている、ということになります。

 

女性のみなさま、もし、このお話にピンと来るようなら、ご自身が自分のことを「子ども製造機」だと感じているという事実を受け容れてみませんか。すると、子どもがいないことの劣等感も優越感も関係ないところで生きられるようになります。

 

女性性における創造性、というのは何も生殖行為による創造性だけとは限らないのです。

 

お花を育てる、ペット君と暮らす。

 

私のようにクリエィティブなジャンルでのお仕事に就く。

 

自分の生活スタイルをより快適なものへと創造する。

 

人との関係、モノとの関係、自分自身との関係をより快適に導いていく。

 

どれだって「創造性」によって実現できることばかり。

 

「創造性」を「生殖行為」だけに結び付けていれば、女性臓器の優劣感情が出てくるでしょう。

 

あの人はナイス・バディだけど、私は全然。だから女性としての魅力がないんだわ。というように。

 

そんなことを思う必要はまったくない、ということがわかりますね。

 

ミスコンに出たい人は出ればいいし、出たくなければ出なければいい。だからと言ってお互いに自分が「上」などと思う必要もなくて、「みんなそれぞれだから」という事実を淡々と受け容れる。

 

子どもさんを授かって幸せな女性もいれば、子どもさんを授かっても幸せを感じられない女性もいる。

 

子どもがいなくても幸せな毎日を過ごしている人もいれば、子どもがいなくて不幸な毎日を過ごしている人もいる。

 

みんな、それぞれの道を歩んでいるだけです。

 

女性だから、こうでなくては、なんて女性同士が感じ合う必要はまったくなくて。

 

ただただ目の前のことを「そうなんだ」と受け容れられるようになると、私たちの生活はもっともっと楽しくなるのではないでしょうか。

 

私は今から、気分転換の「ガーデニング」タイムを楽しみます。

 

土に触れるのは、命の源に触れさせてもらえるようなものなので、かなりの贅沢感を感じられます。

 

 

 

 

 

 

 

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