「信仰」の意味がやっと視えてきた

私は宗教的教義に疎い。

 

そのため、言葉の意味一つ一つにひっかかりを感じたりすることが多い。

 

「信仰」に関してもそうだ。

 

何をもって信仰というのか。帰依とはなんなのか。

 

ふと浮かんできたのは、信仰とは、その存在が「在ること」「在り続けること」へ全幅の信頼を寄せることではないかと。

 

その存在は、自分から視て「尊敬」や「畏怖」「崇拝」対象である必要はなく。

 

自分とフラットな立場の存在であっても、その存在自体を信頼する。

 

こう考えると個人的にはスッキリする。

 

「帰依」という言葉を調べてみた。その中に「高次元の存在を信じる」というものがあった。

 

「高次元」は文字通り自分より次元の高いところに在る存在。

 

けれどその存在が自分より尊いと考える必要はない。少なくとも私はそう感じる。

 

居場所が違うということは、お役目が違う、ということ。

 

けれどお互いに存在しなければ、例えば高次は高次だけでは高次の存在にはなり得ないということだ。

 

私たちのように彼らからすると低次に在る存在がいて、はじめて彼らは「高次」となり得る。

 

それにもしかしたら高次の存在は自分たちを高次だとはとらえていなくて、私たち人間が勝手に「高次」としているだけかもしれない。

 

「帰依」の意味には、こんなものもあった。

 

避難する。

 

本来あるべきところに戻る。そこに寄りかかる。

 

一時的避難所であるのなら、それは本来あるべきところではないし、本来あるべきところに戻り、そこに寄りかかっているのなら、それもまた「本来」の場所ではないような気がする。

 

本来あるべきところに戻ったのなら、何にも寄りかからず、自分の足で立てそうな気がするのは、私の大いなるエゴのせいだろうか。

 

宗教や信仰の中で生きている人たちからすると、私の言ってることなどピント外れなんだろうな、と感じながら、それでも、なんとなく自分の中で「他者への信頼」というフレームが視えはじめてきたので、私としてはそれだけで十分だ。

 

他者に全幅の信頼を寄せるためには、まず自分自身に信頼を寄せられる自分でないとならない。

 

まず自分自身。

 

その先に信仰対象。

 

自分が信じられないのに、いきなり「高次」に頼ろうとしても、きっと足元がぐらつく。

 

足元がぐらついても支えてくれる存在が「高次」なのかもしれないけれど。

 

今、私は自分自身への信頼が揺るぎ、こころがアタフタしているため、こういうことが浮かんできたんだろう。

 

アタフタがあったからこそ、少しだけ気持ちの整理がついた。

 

平穏続きの日常だったら、こんなこころの変化さえ浮かばない。

 

感情のアップダウンは恐れるものではなくて、私たちの聖なる味方。

 

人生のでこぼこ道を歩くことこそが、私たちの命の意味なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

※ 追記

 

きのう、ものすごく気持ちがあがったのですが、きょうはボロボロです。

 

さまざまな一見「負」の感情が次から次に顔を出してきます。

 

でもこれって生きているからこそなのではないかと感じました。

 

死んでしまったら、感情の起伏を楽しむことなんてできなくなるのではないでしょうか。

 

肉体があるということは、アップダウンがあってあたりまえ。

 

それを修行で「コントロールする」というのは、私の人生の道なんだろうか、と。

 

私は修行のために、この命を授かったんでしょうか。

 

生きているだけで修行になるんじゃないかと感じるのは、俗人のエゴなんでしょうか。

 

こう書いていると頭がグルングルンとまわってしまいます。

 

一方で、「私なり」の答えが見つかりつつ、なのでグルングルンも悪くないな、と感じています。

 

何だっていいんだ。

 

この世での生の謳歌の仕方は人それぞれだから。

 

謳歌、と書こうと思ったら「桜花」の文字が先に出てきました。

 

桜の花でも楽しんできなさい、というメッセージみたいですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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