愛とは絶対的安心感の中でくつろぐこと

愛の定義はむずかしい。

 

人によっても変わる。状況によっても変わる。

 

今、私の中に浮かんできた愛とは、「絶対的安心感の中でただただくつろぐ」、その状態。

 

愛の反意語もまた人それぞれだ。

 

一般的には「不安」「恐れ」を意味することが多いだろう。

 

「不安」がこうじて「恐れ」になり、さらにそれが「恐怖心」となる。

 

恐怖心とは、愛の欠乏感にあえいだ状態。

 

分離による不安が恐れとなり、独りぼっちで放置された状態、見捨てられの状態でえもいわれぬ淋しさだけが自分を包む。

 

その時に恐怖心がMaxになる。

 

そんな時に、人は他者に乱暴したり、犯罪を犯したり、時に自分自身を徹底的に攻撃する。

 

犯罪は許されるべきものではないけれど、その犯罪の影に、強い「見捨てられ感」と強い「孤独感」、強い「恐怖心」が隠されていることに気づくと、少なくとも私たちは自分が犯罪者にならないための予防線を張ることはできる。

 

理屈では。

 

けれど犯罪がなくならないどころか、年々増えている状況をみる限り、理屈ではどうにもならないことがあるということなのだろうか。

 

私たちは愛を欲する生き物だ。

 

愛の欠乏感にあえぐ生き物だ。

 

まずその大前提を理解し、愛とは何だろうと立ち止まってみる。

 

すると、「絶対的安心感の中でただただくつろぐ」、その状態。

 

そんな概念が浮かんできた。

 

私たちはこの世界に生まれて、本当に「絶対的安心感の中でただただくつろぐ」、その状態を体験できるものなんだろうか。

 

体験できないから、追い求めるものなんだろうか。

 

もしも誰もが体験できないまま、この世界を生きているとしたら、みんな土俵は同じだ。

 

みんな、分離による淋しさのただ中にたたずんでしまっている。

 

でも、みんなそうなら、それがデフォルトだ。

 

みんな淋しいんだ、という意識を共有できはしないだろうか。

 

自分だけじゃないんだ、この淋しさは。

 

彼だって、彼女だって、世界的に成功していると言われるあのセレブだって「淋しい」と思いながら生きている。

 

自分は仲間外れなんかじゃない。

 

「淋しさ」コミュニティーの一員だ。誰もが「淋しさ」で共感できる。

 

淋しさつながりの星なんて、それこそ淋しい気がするけれど、本当の淋しさは「疎外感」「無価値感」なのではないか。

 

つながっているんだから、少なくとも「疎外感」は必要ない。

 

みんなと同じ価値があるのだから「無価値感」を感じる必要もない。「無価値」であるのなら、この世界で生きているはずはないのだから。

 

逆説的に、「愛」がデフォルト、という考え方に向き合ってみたけれど、少しは安心感が伝わっただろうか。絶対的安心感を得るまでの伸びしろはまだまだある、という状況の中で。

 

 

 

 

 

 

 

※ 追記

 

ある人の本を読んで感じたのです。

 

愛とは、行為ではないと。

 

愛という状況の中にたたずむことなのではないかと。

 

愛、愛と口にする人ほど、実は愛を行為化しているのではないかと。

 

自分自身もまたその一人なのかもしれません。

 

こころの中に少しだけ芽生えた変化の「芽」。

 

愛は永遠のテーマですね。

 

 

 

 

 

 

※ 追々記 

 

真実の愛を説け、とメッセージが浮かんできました。

 

真実とは、私にとっての真実ですので、すべての人にとっての真実ではありません。

 

それでも一つ大きなお役目をいただき、嬉しくなりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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