知らないからこそ発見の歓びがある

私たちは知らないことを時に恥と感じる。

 

知らないのに知らないと言えなくて、知ったかぶりをしたことはないだろうか。

 

私は数年前、愛猫を猫伝染性腹膜炎 = FIP という病気で喪った。家猫初心者の私は正直、そんな病気があることさえ知らなかった。原因もわからなかった。

 

月齢5か月になったその日に、愛猫は病院で一人旅立った。その数十分後に、彼のお里のブリーダーさんと私が病院につくのを待たずに。

 

獣医師に聞いた。原因はわからなかった。

 

どうにも納得がいかず、友人のつてで、ある獣医師とコンタクトを取ることができた。その獣医師なら、何かを知っているかもしれない、と。

 

「あなたの猫は、無知な飼い主に飼われて短命に終わる運命にあったのよ」

 

それがその獣医師からの言葉だった。面識もない、なぜ、そんな言葉を言われなければいけないのか、正直腹が立った。

 

瞬間、私の負けず嫌いがムクムクと頭をもたげ、「こんなこと、言われたままになんか絶対しない」、そう、心に決めた。

 

「無知」という一言が私にスイッチを入れた。

 

その後、私は次なる猫のお迎えを考えた。

 

同時にホリスティック・ケアを学んだ。

 

顔もみたことのない獣医師にそんなことを言われる筋合いはない。次なる猫にはパーフェクトなケアをする、と。

 

私の場合、完全なる独学だ。

 

そのお蔭で、新たな愛猫、続いて愛犬を安心して迎え入れることができた。

 

彼らのお蔭もあって、私は、ホリスティック・ケアの専門家として著書を上梓させてもらうことができるところへとたどり着いた。

 

資格がなければ専門家とは言えない。

 

そんな意見もあるだろう。

 

私には実体験という強みがある。

 

ホリスティック・ケアの専門家がまずいのなら、私は飼い主専門家だ。獣医師とは異なる飼い主目線でのケアを考えられる。

 

ありがたいことに私の本はロング・セラー作品になっている。出版社によれば、セールス的にも同ジャンルの中でトップ・クラスだそうだ。

 

さらに、私は、飼い主さんに向けてカウンセリング・セッションを展開できるまでになった。

 

あの時、「無知」だったからだ。

 

私の無知が、人々に知恵といくばくかの愛を届け続けさせてくれている。

 

私の「無知」と引き換えに確かに愛猫の命を喪う結果になったのだろう。

 

けれどあの失敗体験があったから、今がある。

 

誤解を恐れずに言うのなら、たいていの獣医師と対等に渡り合えるくらいの知識と知恵は授かった。

 

その過程で、どれだけたくさんの発見があったことか。

 

人から教わることが苦手な私はほとんど独学で学んだ。

 

知恵の大半は、愛犬、愛猫との生活の中で得られたものばかりだ。

 

つまり実践情報。

 

そんなところにも負けず嫌いの片鱗があらわれる。

 

負けず嫌いだからこそ、ここまで続けてこられた。

 

知らなかったからこそ学べた。

 

その過程での発見は、心湧きたつものばかりだった。

 

今思うと、私の「無知」は財産だ。

 

あの時、すべてを知っていたら、その後の私の人生はあり得ない。

 

どんなちっちゃな発見にもこころがウキウキするような、そんな歓びも得られなかった。

 

当時、私に「無知」という言葉を投げかけた獣医師に対して強い怒りを感じたけれど、それも今となってはGiftだ。

 

スイッチを入れる役割を果たしてくれた。

 

また、一般的にはあまり良いイメージでとられない「負けず嫌い」も私の人生を輝かせてくれた。

 

知らないこと。

 

負けず嫌い。

 

どちらも欠点にも長所にもなり得る。

 

私にとっては「長所」となったことにきょうはじめて気づいた。

 

ぴぴ麿。

 

あなたのお蔭で、私はここまで歩いて来れましたよ。

 

あなたの病気の原因は、100%は解明できていないけれど、小さい時からごはんに気を付け、飼い主さん自身が自分のメンタリティーに気を付けていれば、発症のリスクは減らせるだろうことはわかりました。

 

もし万が一発症してしまった場合にもさまざまなケアの方法があることも見つけました。

 

そして万が一息を引き取るような状態になった時に、どんな気持ちで見送ればいいのか、その後、どんなヒーリングをすればいいのか、どんな対処をすればいいのか、私流ではあるけれど、すべてわかりました。

 

穏やかな旅立ちを見届ける術を見つけたのです。私たちが穏やかであれば、ペット君もより安心してあちらに行けることでしょう。

 

その後の生き方もわかりました。残された私たちがどうすればいいのか、どう人生に向き合えばいいのか。

 

ぴぴ麿。すべて、あなたがいてくれたから、です。

 

あなたの命がこの世に「在った」からです。

 

あなたが私のところにきてくれたからです。

 

あなたとのご縁が、私を変えてくれました。

 

私は、あの医師に再び「無知」とは言わせない。

 

けれどまだまだ知らないことがたくさんある自分の命が愛おしくて仕方ありません。

 

ぴぴ麿のお蔭で、自分を受け容れることができるようになりました。

 

ぴぴ麿のお蔭で、愛とはどんなものなのか、ほんの少し人々にお伝えすることができるようになりました。

 

ぴぴ麿の愛が私の中でまだ生き続けてくれているからです。

 

ぴぴ麿が私の中で息をしてくれているからです。

 

あなたが生きた証は、私が生きている限り、私の中であり続けるのです。

 

あなたの死が、私をより私らしい場所へと導いてくれたのです。

 

知らないと言えることは、私たちにとって力となる。

 

すべてを知っている人は、発見の歓びさえ得られない。

 

知らなくて、小さな発見一つ一つにこころを湧き立たせるのと、なんでも知っていて、こころが波たたないのと、どちらが魅力的かと言えば、私に限って言えばまちがいなく前者だ。

 

こんなことを思う時は、きっとあちらの世界でぴぴ麿が私にメッセージをくれている時なのだろう。

 

かぁさん、僕は見ているからね。ずっと、かぁさんがかぁさんらしく光り輝いていられるように。

 

負けず嫌いも悪くない。

 

知らなかったことさえ力にできることがわかったのだから。

 

 

 

 

 

 

 

※ 追記

 

当エッセイ、執筆2019/03/30。アップができず、翌31日にアップとなりました。

 

明日新しい元号が発表されます。 ← ごめんなさい、明日元号が変わる、と書いていました。

 

私にとっての平成は何だったのか、がわかりました。

 

喪失から学ぶ期間だったようです。

 

母の死、実家の愛犬・ぽぽの死、父の死、愛りす・ぴぴの死、愛猫・ぴぴ麿の死、海・かいの死、兄の死。そして元・親友の死、義父の死。

 

そのほとんどが突然死だったことに大きな意味があることを感じていました。

 

喪失が欠如ではなく、再誕生の一歩だと、そのことを身をもって学ぶことが私の課題でした。

 

そのためには、絶対的喪失感を感じきらなければならなかった。

 

喪失感を感じきった時、私たちは新たな何かを得て、自分の人生を再生、再構築することができるようになります。

 

ロスからゲインへ。喪失から獲得へ。

 

これは、今は絶版となっている拙著『哀しみを幸せに変える、心の処方箋 ~ ハッピー・ペットロス』の隠しテーマとして授かったものです。

 

今、この本を再び手に取り、涙があふれました。

 

今まで気がつかなかった。

 

タイトルの頭に「失ってからやってくる幸せがある」と書かれています。

 

当時の編集者さんがつけてくれていたのですね。

 

知らなかった。

 

この本は亡きぴぴ麿に捧げたもの。

 

ぴぴ麿のメッセージ、「失ってからやってくる幸せがある」、だったんですね。

 

それを私に伝えたくてぴぴ麿はあちらから私をコツンコツンとつつきまくっていたのでしょう。

 

このことを知らなかったから、今、発見の歓びに震えることができました。

 

ぴぴ麿を「福猫」とどこかで表現した記憶があります。

 

その通りだったことに改めて驚きました。

 

無知の力。

 

ぴぴ麿があの時、なぜ私たちの到着を待たずに一人で逝ってしまったのか、今、わかりました。

 

この言葉で私と再会するためだったんだ。

 

ぴぴ麿の愛の方が私の愛より数段上です。

 

あっぱれ、ぴぴ麿 !

 

 

 

ハッピー・ペットロス、は私の次なる著書のテーマだと感じています。

 

新しい時代のハッピー・ペットロス。

 

その実現のサポート・チームが動き出しているよ、というサインなのかもしれません。

 

 

サンキュッ !  

 

 

 

 

 

 

 

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