昨年の今頃、友達が亡くなりました。正確には元友だち。
あまりにも突然のことだったので、当時私はかなりこころが乱れていました。
ケンカ別れとまではいかなくても、明らかに生き方の違いを感じて、距離をおくようになった友達です。
彼女の光だけではなく闇を知っていた私は、彼女自身がやりきれなかっただろう、闇の統合を自分のこととして行い続けました。
もちろん本当の彼女の気持ちなどわかるはずもありません。
自己満足のため、だったのかもしれませんね。そうやって感傷に浸っていたのかもしれません。
そう言えば、そろそろ一年だな、と感じたその時、突然、ふと、こころが軽くなる感覚が訪れました。
そっか。
彼女はその時が来て、死んだ。それだけだ、と。
私たちは大切な存在が亡くなると、その存在との想い出を反芻する癖があります。
楽しい想い出、哀しい想い出、つらかった想い出、悔しかった想い出。
その一つ一つを何回も何回もかみしめて味わう。
そのうちに、その想い出は真実とはかなりかけ離れて脚色されていきます。残された人間の都合の良いように。
たいていの場合、「あの人は素晴らしい人だった」「あの人はこんなに素晴らしい生き方をした」とある意味、神格化にまで進むことが少なくありません。
それも実際には、その、思い描いた人の潜在意識によるもの。
彼女についても同じ。
Aさんという人が思い浮かべる彼女は、聖母。
Bさんという人が思い浮かべる彼女は、リーダー。
Cさんという人が思い浮かべる彼女は、生神様。
誰一人同じ彼女を思い浮かべることはできません。
そして私自身は、彼女は聡明だけれど、自分への愛が少なかったものすごい淋しがり屋さん、と。彼女自身への愛です。
それも私の潜在意識によるものです。
一年間想い出をかみしめてきたので、もういいかな、という想いが出てきたのかもしれません。同時に、彼女の方が「もう平気だよ。私のことは」と言ってきてくれたのかもしれません。
死人商売という言葉がありますが、いつまでも想い出をかみしめているのは、ある意味死人商売と同じメンタリティなのかもしれませんね。
もちろん、それがいけない、という意味ではなく。誰にでもある感情ですものね、そうしたものは。何より私自身がそこにいたということなのかもしれませんから。
私は、過去の彼女との時間にとらわれていましたが、死んでしまった人はそのままの姿ではこちらには戻ってこない。もういいな、想い出話に花を咲かせるのは、とそんな気持ちになりました。
これは、大切な人を亡くして、その人との想い出を手放せないでいる人に対して、私の考え方の方が優れているわ、と言っているわけではありません。
ただ、私は今こう感じた、ということです。
彼女はその時が来て、死んだ。それだけ。それ以上でもそれ以下でもない。
そう思った途端、こころがさぁっと晴れるのを感じました。
彼女とはある期間、大切な友達として時間を過ごさせてもらいました。
その後、私たちは別々の道を歩き始め、その旅の途中で彼女にはゴールがきて、そこからまた彼女は別の旅を始めた。
私はこちらの世界で自分の旅を続けている。
共に、お互いに関与しない世界に入った、ということです。干渉しない、が適切かもしれません。
私があちらの世界に向かう時には、彼女がお迎えメンバーの一人として登場してくれるかもしれません。あるいはお互いが生まれ変わった時、異なる形で再開できるのかもしれません。
彼女がこの世界からいなくなったことの淋しさは淋しさとして、けれど彼女との過去の時間にいつまでもしがみついているのはやめようと、自然にそう思えるところまでたどり着きました。
今、当エッセイ執筆を彼女がのぞきこんでいるかもしれません。
その顔は、まちがいなく笑顔でしょう。
「私のこと、忘れちゃいや」なんて、そんな感情を持つのはこちらに残された、私たち人間だけのはずですから。
桜の季節。新時代の風は、私のこころの花びらをさぁっと運んで行ってくれるみたい。より軽やかなどこかへと。
その風に、今はほんのりと彼女色がついているのかもしれません。