ぎっくり腰がくれたプレゼント 2

さて、私は今、ぎっくり腰と向き合っています。

 

ぎっくり腰。調べてみたら、腰の骨ではなく、筋肉の捻挫なのですね。それさえ知りませんでした。

 

主人はぎっくり腰の先輩なのですが、私の症状がそれほど重くならないのは、普段からお散歩したり、エクササイズをしているためではないか、と言っています。

 

調べてみると、スポーツ選手でもぎっくり腰になることは多く、その場合は筋肉疲労だとありました。私の場合はそれほどではないので筋肉疲労が原因とは思えないけれど、ピラティスで体幹を整えていることは、症状が重篤にならなかった一つの要因かもしれません。

 

最近、気功系体操チックなものも始めているし。

 

ぎっくり腰の症状が出た時は、さすがに落ち込んだのですが、すぐに「過ぎる」という意識がわいてきました。

 

そう、この手の症状や痛みは「過ぎる」のです。

 

数か月前、整体関連の先生の著書を数冊読んでいました。それら、すべてに共通していたのは、身体のこういった症状、痛みは、身体がいまより良くなろうとしている時にあらわれるもの。実はとてもポジティブな現象だ、という考え方です。

 

症状、痛み = いけないもの = とりのぞくべきもの。

 

私たちの中には、知らないうちにそういう考え方が浸透しています。

 

が、それと真逆だ、というのが整体理論のポイントです。それらの本を読んだ時、納得しまくりで当エッセイに書きたかったのですが、なぜかその時は書けず。

 

今になりました。

 

例えば、身体に痛みさえ出なくなった時は、人間はそう長くは生きられない、と。これはかなりの極論ですが、痛みが出ることは、肉体としての営み、歓びの一つで、何も恐れることはない、といったような観点のお話がたくさん出てきていました。

 

おわかりになりますか ?

 

一般的に病気、けがを忌むべきもの、としているのは西洋医学の考え方です。「病気と闘う」という表現をするのはそのためです。

 

東洋的叡智では、その反対の理論が展開されます。

 

どちらが良い、悪い、ではなく、事実としてそうだ、ということです。

 

「病気と折り合いをつける」とか「共存する」という言い方をする場合もあるのですが、本当に心の底からそう捉えている専門家は、おそらくかなり限られています。

 

私自身は、その手の考え方が好きではあったのですが、何かあるとやはり、「この症状を早く改善したい」と思う方で。

 

今回は、「過ぎる」意識が真っ先に浮かんできたので、何もしないわけではありませんが、不安より、この先の歓び、希望の方が勝ってしまって、「こころ」の落ち込みが少ない、というのが、私にとっては大きな進歩となりました。

 

「こころ」の落ち込みが少なければ、身体の自然治癒力が働きやすくなる、というのが定説。そうです、今、起きている状況を「受け容れる」か「抵抗する」かの違いで、治癒に向ける方向性やスピードが変わってくるということです。

 

私たちの中には「抵抗する」意識が強く根付いていますから、ここを抜けるには相当意識的にならなければなりません。

 

それが自然な流れでポンときてくれた。

 

このことが今回のぎっくり腰がもたらしてくれた二つ目のプレゼントです。

 

ぎっくり腰くらいのことだから、お気楽な気持ちでいられるのかもしれません。

 

それでも東洋の叡智を、この身体で体感できたことは、この後の私の人生に大きな光がもたらされたのと同じこと。大げさな言い方ですが、私の中では、これは「真実」です。

 

西洋と東洋とわけるのは、本来おかしいことなのかもしれません。けれど、西洋と東洋のいずれもを感じなければ、私たちは何かが欠けた存在になってしまうのではないでしょうか。

 

善悪基準でも、優劣基準でもなく、両者の違いをただ受け容れる。

 

すると、何か遠くに「在る」はずの、「大いなる一つ」が視えてくるようになるのかもしれません。

 

痛みの最中にこんなことが次から次に浮かんでくるのです。

 

痛みは痛みとして起きていることは確か。

 

けれど私の意識はそことは離れているみたいです。

 

ありがたいことに、前エッセイを書いた後も、ぎっくり腰の「痛み」はかなり軽減されています。

 

自然治癒力が働いてくれている、ということなのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

 

 

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