ぎっくり腰がくれたプレゼント 7

自己犠牲。

 

この言葉を聴いてあなたはどんなことを思い浮かべるでしょう。

 

ぎっくり腰、という現象を通じて、潜在意識が何かを伝えたいのか、私なりにひも解いてみました。

 

さまざまなメッセージが考えられましたが、そのうちの、大きなポイントが、この、「自己犠牲」だったのです。

 

ぎっくり腰になって、すぐセルフでのヒーリングをしましたが、効きません。クライアントさまに対してなら速攻と言えるくらい効果が感じられることがほとんどなのに。

 

そこで気づいたのです、私は人のことばかり考えて、自分のことは後回し。いえ、後回しどころがほおっておきっぱなし、だということに。

 

それが自己犠牲の真意です。宗教的教義としての自己犠牲ではなく、私たち一般人レベルでの自己犠牲についてのお話です。

 

自己犠牲とは、自己欺瞞であり、偽善である、とも感じました。

 

自己犠牲を英語でいうと、なんになるのか。調べてみると、self‐renunciation という表現が見つかりました。自己犠牲と説明しているものもありましたが、自己放棄の意味もありました。

 

自己放棄とは、セルフ・ネグレクトでもあると。

 

これです、まさに、これ。

 

私の潜在意識は、自己を放棄していたのです。

 

自己の放棄。命の放棄。人生の歓びの放棄。人間が人間として生きていくその道を放棄していた。

 

まさか、の展開に驚きました。が、納得いくのです。私は幼い頃から、貧血気味で、今も低血圧状態は残っています。日常生活には何ら支障はありませんが、そのお蔭で長い間、重篤な冷え症、冷え体質であったことは確かです。

 

そう、生の歓びに通じていなかったのです。血の巡りが悪い。血は生命そのものを意味しているんでしょうね。さらに生命とは、血とは、と考えるとおそらくそれは大いなる一つと呼ばれる存在の「愛」のことなんだろう、と感じました。

 

この時の愛は、私たちの知る愛とは無縁の、愛と呼ぶことさえ必要ないほどの絶対的な何かを意味しているのではないでしょうか。

 

なるほど、自己犠牲意識に気づき、それを受け容れ、統合するために、ぎっくり腰という現象が私に訪れたんだ、と気づきました。

 

そのことが間違いではない、と教えてくれたのは、マンションの敷地内に咲き乱れているドクダミの花です。今まで気づきませんでしたが、きのう、たくさんの花を目にして、「なんだろう」と。ドクダミは、あの匂いとその名前から、かなり誤解を受けている植物らしく、その意味は「毒をためてその毒を抑える」というものなんだとか。そう、身を挺して私たちを守ってくれている存在なのです。

 

花言葉は。

 

「自己犠牲」

 

こんな展開、考えられますか ?

 

私は、植物には「精霊」がいる、「在る」かな、いずれにしても何かの氣が存在していると思っていますので、こういう「シンクロ」が起きた時は、それらが私にメッセージを投げかけてくれているのだろうと捉えています。

 

そんなの頭のおかしい人です。そう思われても、まっ、いっか。

 

なぜなら、そう感じるのは私の自由、私ならではのこと。ということは、私の直感、直観がそうとらえている、ということで、それこそが私の個性だと思うから。

 

人がどう感じるか、何を感じるか。そんなことを一つ一つ干渉していたら大変なことになります。みんな違ってあたりまえ、みんな同じだったら、この世界は成り立ちません。

 

これは私自身への戒めとして、今、浮かんできたくれたメッセージでもあるようですね。

 

さて、自己犠牲を「美徳」としてきたらしい自分自身の潜在意識を感じきりました。

 

するとこんな概念が浮かんできます。

 

「生贄」「人身御供」

 

泣いています。過去生の私なのか、集合意識なのかわかりません。ただただ泣き続けているんです。

 

宗教の世界では、幼い子ども、特に女の子が、神への捧げものとされたこともあるようです。今でも、ヒンドゥーなどでは、アウト・カーストの女の子が「神への捧げもの」として、家族の生活を支えるために、その心身を放棄していることもあるんだとか。

 

そのことの是非を問うのではなく、ただ、その「犠牲」になったらしい魂の想念たちが、泣き続けている。どうやらその意識に私の潜在意識がつながってしまった。

 

幼い感じの意識です。何も知らない、何もわからない。けれど、なんでこんな目に遭うの、という哀しみ、淋しさ、憤り、恨み。

 

その意識に寄り添っていたら、少し落ち着いてくれた様子だったので、本来あるべきところに還ってね、と話しかけました。

 

ようやく安心した様子。そして、それらの意識がさぁっと飛んで行ってくれました。幽霊ではなく、意識の集合体が一つの色を成していたのです。

 

その次に出てきたのは、「女性、もしくは女性性は神への捧げものとして、自己犠牲を強いられてきた。その必要はない。なぜなら、女性、女性性と、男性、男性性は元々一つのものなので生贄は必要がないから」という概念です。

 

生贄の存在があって、生贄は必要ない、ということがわかる。

 

生贄そのものが不要だという意味ではありません。

 

繰り返しになりますが、これは宗教的教義を批判しているのではなく、私の個人レベルでの意識に過ぎません。誰かに対して異を唱えているのではなく、自分自身の意識を整理しているだけのことです。

 

こんな「重い」メッセージを抱えていたのですから、私にはプレッシャーが大きかったんでしょうね。

 

「こんな大荷物、私には無理」

 

そう判断した何ものかが、腰回り、厳密に言うと、ぎっくり腰は背筋と背骨周りの筋膜が痛む、という説もあるみたいですが、「もう手放しちゃいなよ、今がその時だよ」と私に助けを出してくれたのかもしれません。

 

私たちの身体にあらわれる症状は、私たちのその先の人生をより軽やかに、より真ん中に近づけるためのGiftであるという考え方があります。これが東洋的叡智。

 

今回は、症状があらわれたその時から、私の意識の中で東洋的叡智が表立っていたため、どんなに痛みがひどくてもただ明るい未来だけしか感じなかった、というのが本当のところです。

 

私のまんまん中にいた「自己犠牲」「自己放棄」。

 

腰って肝心要、というじゃないですか。そこに集まった意識が「自己犠牲」「自己放棄」だったら、そりゃあ、人生重くて仕方ないですよね。

 

もちろん、過去、それらが私を支えてくれていたことは事実。

 

エネルギーが変わるよ、の合図と共に、それらが自分から旅立つことを選択してくれました。

 

もう、何が何だかわからない、気持ち悪い。

 

最後まで読んでくださって、そう感じる場合もあるかもしれません。ごめんなさい。

 

私自身は、この、大きな解放劇に大満足。

 

嬉しくて嬉しくて仕方ありません。

 

「ぎっくり腰」って魔女の一撃とも言うんですって。

 

魔女たちがガツンとやってくれて、結果的に人生が軽くなった、ということはないでしょうか。人生を軽やかにするための一撃。

 

こんなにもケガを愛おしいと感じたことはありません。

 

なんでも人生の歓びの種、なんですね、きっと。

 

私の大切なパートナー、あちら在住、愛猫・海・かいのメッセージにこんなものがあります。

 

joyの波動で生きろ。

 

 

 

 

 

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