雨だからこそ視えて来るもの

 

わが街に「ハイアット」がやってきた。ホテルの「ハイアット」。個人的に、ハイアットが大好き。バリ、サヌール地区のハイアットは、私の中では最高ランクの居心地の良さだ。

 

ハイアットは建設当初からガーデン・デザイナーがスタッフに加わるらしい。そのお蔭で敷地内の植栽が半端ないほどに美しい。

 

その系列のホテルが自宅から10分ほどのところにできた。オリンピック対応なのでカテゴリーは異なるけれど、その植栽は、オープン前から私の目を捉えて離さなかった。

 

できたばかりのハイアットでランチをいただく。雨の日のご褒美ランチ。レストランは三方がガラス張り。外の雨を見やりながら、樹々の息吹きを感じながらの食事にこころがやわらぐ。

 

食後、ホテルから目と鼻の先にある海の公園に向かう。

 

雨の日にこの公園に足を運んだのは初めてのこと。普段は愛犬・華実とのお散歩でやってくる公園だ。そう、華実とのお散歩は、晴れ、もしくは曇りのみ。

 

雨のお蔭で広い公園が貸し切り状態。思いがけない贅沢にこころが弾む。誰もいない海の公園。家のすぐそばにとびっきりの贅沢が息を潜めていた。

 

華実とのお散歩コースを一人でゆっくり歩く。雨に濡れた草木の美しいこと。クモの巣の水滴まで輝いてみえる。

 

こんな景色、今まで気づかなかった。

 

そこでふと感じる。雨が降ってうっとおしいな、と感じるのは、私たち人間だけなのではないか。草木も花も虫も鳥も動物も、土も砂も石もアスファルトもみんな雨の恵みにこころ弾ませているんじゃないだろうか。

 

雨って本来「恵み」なんだ。生まれてはじめてそのことが腑におちる。

 

普段、雨の日にはほとんどお散歩などしない。お天気のいい日には、華実が一緒なので、ここまでのんびりと自然に向き合うことはない。ただ歩くだけ。

 

雨だからこそ、たくさんのことが視える。感じる。雨と同調させてもらえたのか。

 

もしかしたら、私たち人間が「雨は恵みだね、ありがたいね」とこころをそろえれば、雨による被害は少なくなるのかもしれない。

 

台風による被害も同じだろうか。「突風と大雨は恵みだね。今はそう感じることはできないけれど」、少しだけこころのスイッチをずらす、と自然災害は少なくなってくれるのだろうか。

 

ほんの何かのすれ違いの蓄積が、私たち自身を苦しめてしまっているのかもしれない。

 

自然とこころを一つにできれば、地球上の自然災害が減ってくれるかもしれない。

 

あなたたちも本当は自然の一部なんだよ。

 

雨や風や竜巻は、そんな地球からのメッセージの現象化なのだろうか。

 

この街は埋立地。かなり人工的な街だ。

 

それでも緑は豊かだし、その他の自然もそれなりに美しい。この街に今住んでいるのは偶然でもあるし、必然でもあるのだろう。

 

そんな中でこんな偶然に巡り合えた私は幸せだ。

 

雨の季節も悪くない。ジトジトして洗濯物が乾かないのは困るけれど、雨が降らなければもっと困る。

 

雨は、私たち人間を攻撃しようなんて、思っているはずもない。

 

それを「攻撃」と取るのは、私たちのこころが「攻撃性」に満ちているから。

 

正確には、私のこころが、だろう。

 

攻撃性。けれど悪いものではない。自分を護るために、自分の中から湧き出てくる力だから。

 

攻撃性もまた、生きていくのに必要なもの。

 

自分は攻撃性と無縁と思っている人でも、必ず、何かの瞬間にものすごい攻撃性という力を使っている。気づいていないだけのこと。人は誰でもそう創られているのだから。

 

この季節の雨は雄弁だ。こころのオリを洗い流してくれているのかもしれない。そんな雨の効用もあるのだろう。雨の中にクッキリと浮かびあがるこころの景色の数々。

 

 

 

 

 

 

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