依存症との共存の仕方

 

私は依存症だ。

 

正しくは、私たちは誰でも何かしらに依存しながら生きている。

 

依存症というのは、愛の代替行為、補償行為とも言う。

 

親からの愛を十分に感じられないで育った人は、その穴埋めのためにさまざまな行為や人物に依存しようとする。

 

その「依存」が悪いものと思っているとなかなか前に進めない。

 

「依存」はあってあたりまえ、ただしその程度は人それぞれ。あまりにも依存傾向が強くなりすぎると生活に支障があらわれるケースもあるので、上手に共存する方法を考えればいい。

 

私は以前ゴースト・ライターをしていた。その時に依存症についての本を執筆したことがある。正直難解な内容の本だった。当時、私はあまり依存症とは関係ないと感じていたので、完全に「他人事」だった。

 

ここ数年、依存症は私の大きな課題の一つだと感じ、つい先日、依存症について書かれた本を読んでみた。

 

その本の著者は、精神科医。何冊か著書を出しているようだが、他の本は、あまり評判がよろしくなかった。私は主に薬物依存について書かれたその著書の中で、「神の薬」という表現があって、そこに意識が引っ張られた。

 

その本によると、私たちは、「神になった !  」という感覚を得たくて、アルコールや薬を利用するのだそうだ。この点について、また改めて別の機会に触れようと思う。なるほど、と思える解釈がなされていたから。

 

その本の中で、個人的に「これは」と感じたのはストーカーに関する記述。

 

私は以前好きな人がいて、その人に何度かアプローチをしたことがある。

 

自分ではそんなことは思ってもみなかったけれど、ある日、知人に「それってある意味、ストーカーですよね」と言われビックリしてしまった。

 

えっ ?   あれがストーカー行為なの ?

 

ではストーカーとは、どういう気持ちが現象化したものなのか。

 

ストーカーとは他者からの拒絶をないものとして捉え、拒絶による自己評価の低下さえも拒絶してしまうことによるものなんだとか。

 

拒絶の否定、さらにその否定、と言ったところか。

 

つまり、「拒絶をいけないものと思いすぎて、それを受け容れられず、何度も拒絶の痛みを呼び寄せる行為」、それがその精神科医の解釈を私流に解釈したものだ。

 

そもそも拒絶がいけないものと捉えていて、拒絶された自分もいけないものだから、それを感じたくなくて拒絶の事実をないものとした、ということなのだろうか。

 

私は自分のあの時の行為が「ストーカー」と呼ばれるものだったかどうか、は今もわからない。積極的にアプローチしただけのような気もするから。

 

ただし、「拒絶を受け容れられない」という「あきらめの悪さ」があなたの中にあったのですよ、と言われればそれは納得。

 

だとすれば、今、あの時の拒絶の事実を感じきってしまえばいい。

 

「私は拒絶されたのね、あの人に。それなのに、あきらめきれなかったのね」と。

 

これはかなりスッキリした。

 

私は依存傾向が強く、人に関しても拒絶される事実を受け容れられなくてなかなかあきらめられなかった。だから自分では積極的にアプローチして玉砕しただけだと勝手に思い込んでいた。

 

その根本は「粘着気質」だったということではないだろうか。

 

粘着気質というと、「しつこい」というデメリットがある一方で、時に「粘り強い」とか「根性がある」とかのメリットにかわることもある。

 

そう、依存症の中の一つに「ストーカー気質」というものがあるとして、その気質はとりたてて特別なものではなく、ある意味誰にでもあるもので、それが-に傾きすぎると、犯罪化にいたるケースもある。ところがそれが+に作用すると、「根性あるよね」という性格にも受け取られるチャンスにもなりかねない、ということがわかった。

 

なるほど、と感じたのは、実は私に「それってある意味、ストーカーですよね」といった知人は、タレントの追っかけをやっていた人物だ。

 

その人は、自分自身の姿を私に投影してストーカーという言葉を使ったに過ぎない。つまり、その人は自分の粘着気質をいけないものだと思いながら追っかけに没頭していたのだろう。

 

愛すべき依存症。

 

依存症に気持ちを近づけたら、思わぬ方向に光が視えて、依存症というのも私たちに与えられた素晴らしき「Gift」なのだな、と思いを新たにすることができた。

 

治療家と呼ばれる人は「依存症」を悪いものと受け取る場合が少なくない。が、そういう治療家だって何かしらの「依存症」を抱えながら生きている。

 

もしも「依存症」で苦しんでいる人がいたら、そのことだけは伝えたい。

 

「依存症」を「悪」とだけ捉える必要はないんだよ、と。「依存症」である自分に罪悪感を感じる必要はないのだから。なぜなら、みんな「依存症」なのだから。

 

 

 

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※ 参考

『やめたくてもやめられない人』 片田珠美著

 

この本は、私が期待していた切り口とは異なるものだったので物足りなさと、こういう視点 ?  という感覚が少し残る内容のものです。

 

が、「神の薬」という言葉と「ストーカー」の説明はなるほど、と腑に落ちたので、やはりご縁があって手元にきてくれた本なのだろうな、と感じます。

 

そう。本との出逢いも偶然ではないはず。そこに何らかの自分のメッセージが託されていて、それをひも解くのが読者としての醍醐味なのかもしれませんね。

 

 

 

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