徹底的に「パーソナル」、個性化の時代

 

徹底的にパーソナル、個性化の時代、というメッセージが届きました。

 

ちなみに、私は「ですます」調で文章を書くと、人へのコビ意識が生まれる癖があるため、ここしばらく「ですます」調をやめていました。

 

きょうの対等のパートナーというエッセイでおわかりいただけると思いますが、私の内部での女性性、男性性のバランスがほんの少し「調和」に近づいたため、一旦「ですます」調に戻します。

 

パーソナル、個性化の時代。

 

このキーワードにピンとくる場合は、ぜひ私の意識とつながってください。意識は必ずつながりますから、周波数が近ければ。この部分、「周波数がぴったり合えば」と言い切れないのが、今の私の状況。

 

今までは、「できるだけ平易な文章を書くこと」がコミュニケーション能力の一つだと思っていました。

 

そう、誰でもわかるように、誰にでも伝わるように。

 

もちろんそういう場合もあるでしょうが、表現の問題ではない、ハートの問題だ、とたった今わかりました。言葉をかえると、表現力には「文章力」と「ハート力」が求められる、ということです。

 

つまり、例えば「愛」という言葉を使ったとします。「愛」から感じるもの、「愛」からイメージするものは、人によって異なります。

 

ただし「愛」という文字を見れば、たいていの場合、「心地よいイメージ」を思い浮かべます。共通認識とはいかないまでも、同じような傾向の感情につながります。

 

このあいまいさが日本人の得意とするところでもあり、またある意味欠点でもあるのだと気づきました。

 

「愛」の言葉を使っている人はなんとなく「良い人」。例えば「動物愛護」に関わっている人は、やはりなんとなく「良い人」というように。

 

現実には、「愛」それだけで人それぞれイメージするものが違うので、実はかなりバクっとした色合いになるわけです。

 

それがきちっと線引きができない理由。日本人ほど人との間の境界線があいまいな民族はいないのです。

 

人と自分との線が引けない。だから時に人の痛みや苦しさに同調して、自分自身を保てなくなってしまうことがある。

 

日本人に躁鬱病が多いことの原因の一つとして、他人の気持ちと同調しやすいから、ということが考えられるのではないでしょうか。

 

私たちは、一人一人が細胞の働きをもっています。細胞は有機的に作用するものではあっても、他の細胞と常に融合して機能するものではないはず。

 

一人一人、一つ一つの細胞が自立してはじめて、他の細胞と有機的につながることができる。

 

そう、「自立」が大前提。

 

それなのに、いつも寄りかかっている、寄り添っている。お互いの境が不明瞭なまま。

 

理系の頭がないので、この細胞のお話、まちがえていたら申し訳ないですけど。

 

パレットに絵の具を出します。知らないうちにじわじわっと滲み出すように色の境がなくなって、気が付くと、「元の色は何だったんだろう」と。

 

一色一色別々の小皿に出せば、色は混じり合わずに元の色のまま。混ぜたい時はまた別の小皿で混ぜればいいし、けれど元皿はそのままキープ。

 

それが「パーソナル」の状態、「個性」の状態。

 

確固たる「個性」という状態のハートがあってはじめて、わかりやすい平易な文章が、本当にわかりやすいものとなる。

 

「個性」がなくてファジーな状態のハートが書いた文章は、たとえ表面的にはわかりやすいようにみえても、ハートそのものがファジーなので、伝わるニュアンスもファジーになる。

 

頭で読むか、ハートで読むか、ですね。

 

教科書などは頭で読む場合がほとんどでしょう。

 

ところが、文学だったり芸術だったりの文章は、ハートで感じることの方が多いのです、私の場合は、と付け加えます。

 

なるほど、1対1の関係ではなく、1対多数の前提のもとに書かれたものは、頭で読まれるものが多い。新聞などもそうですね。

 

一方、1対1の関係で読まれることが前提のものは、ハートで書かれ、ハートで読まれる場合が多い。

 

私は後者のタイプの著述家なのだと、今、わかりました。

 

教科書やテキスト、新聞記事を書くタイプではないと。

 

優劣の問題ではなく、向き、不向きの問題。

 

それこそを「個性」と呼ぶのではないでしょうか。

 

私にも週刊誌の記事や、PR誌などの記事を書いていた時期がありました。

 

正直、おもしろくなかった。自分なりのこだわりなんて求められず、どちらかというと無個性の文章を書かされ。つまり書くマシン。

 

もちろんその部分が得意な人にとっては、おもしろい仕事に違いありません。「無個性」に近いもの、それがその人の「個性」としてのカラーなのですから。どちらも「個性」、どちらもあって「個性」が際立ちます。

 

私は私。

 

日本ではそれを「自己中」とあやまって捉える場合が少なくありません。

 

そもそも、大元の意識が少しずれているのでは ?  正しくは、どこかでそういう教育が施されたのではないでしょうか。

 

もしそうだとしたら、日本人としてのあいまいさを良い塩梅で残しつつも、それでも個性は個性として確立する。誰でも一緒、誰でもおんなじ、ということがないように。

 

当エッセイ執筆途中で、「フリーダム」という言葉が何回も浮かんでいました。

 

自由とか解放とかの意味がある言葉。

 

ダムって何かをせき止めますよね。そのせき止める何かがなくなって自由なさま、というイメージです。

 

せき止めていたのは、他ならない私自身。自分自身のクリエイティヴィティをせきとめていたのかもしれません。

 

それが解放されて、自由を得た。その状態が「個性化」のプロセス。

 

こんな文章、教科書にないはず。

 

なぜなら、すべて私の頭の中から「今」浮かんできた言葉ばかりだから。

 

一見わかりにくくても伝わる人には伝わるのです。

 

 

 

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※ 追記

 

本日、ものすごい勢いであちらからの後押しが来ています。

 

こういう時は、ただ「書け」と、その意識に従うしかありません。

 

 

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