自分を愛するってどういうこと ?

 

自分を愛するってどういうことなんだろう。

 

そう考えていたら、浮かんできました、私は幼い頃から「こうすると人が喜んでくれる」という価値観で生きてきたのだと。それはもしかしたら母の胎内にいた時から。私は「これはお母さんのため。こうするとお母さんが喜んでくれるの」、そんな視点で物事を視てきた気がするのです。実際には胎児の時にそれはないだろう、とは思うのですが、魂的には、まずまちがいないんじゃないかと。

 

日本には「アダルト・チルドレン」と呼ばれる人が少なくありません。子どもの時に子どもらしい考え方、捉え方ができなくて、かなり早い段階から大人としての自分を生きてきた人たちです。「アダルト・チルドレン」の多くは私のように、「まず、人、他者」という思考回路をもっていたのではないでしょうか、無意識のうちに。子どもの自分を置き去りにして育ってしまったから「アダルト・チルドレン」なのです。以前、私は子どものまま大人になったという意味に捉えていました、まったく反対の意味でした。

 

仏教系の、ある本を読んでいて思いました、私たちは自分を愛することがすごく下手なんじゃないかな、と。

 

「エゴ」「自我」、基本それらを手放しなさい、と言われていませんか、私たちの潜在意識は。違う、顕在意識かな。

 

ブッディストではなくても、身体の中に仏教の何かがしみ込んでいる。それが素晴らしい方向に出ることもあれば、時に、自分のない、自分のわからない、自尊心の低い自分を創り上げることもあるのかもしれないな、と。

 

自分を愛する、とは自分を100%あるがままで受け容れるということです。これがなかなかむずかしい。おそらく自分を100%受け容れている人はほとんどいないはず。

 

ではどうすれば受け容れられるのでしょうか。

 

徹底的に自分に向き合う、ということではないでしょうか。長所だけでなく欠点にも目を向けて。同時に気持ちいい感情だけでなく、不快な感情にも向き合って。

 

実はこの後者が難題。私たちには「いやだな」と感じる感情を自分の中で制御して、感じないようにしてしまうこころの仕組みが備わっているから。自分を護るため。

 

例えば「怒り」。一般的に怒りはよくないものとされていますね。怒ってはいけないと自分で自分のハートにブレーキをかけてしまう。

 

どこかで目にしましたが、日本人は「怒りを抑える」のが一番上手な国民なんだとか。

 

いえいえ、上手なのではなく、怒りはいけないと思いすぎているからこころを麻痺に近い状態にしているのではないでしょうか。

 

モノの本などに「怒ると体内の状態がものすごい状態になる(たぶんホルモンのこと)」とか「怒りのエネルギーはネズミまで殺してしまう」とか、かなりバクっとしていますが、そんな内容のことが書いてある場合があります。

 

でも必要だからわいて来る感情ですよね。「私は今怒っているの」と。

 

それをないものとしてフタをし続けることの方が危険ではないでしょうか。

 

怒りはきちんと感じる、発散する。

 

時に怒りは何かのモチベーションにつながります。

 

「なにくそぉっ」という強い想いが、何かをやり遂げる力につながったり。

 

怒りを感じて発散する。

 

それも自分を愛することの一つではないでしょうか。

 

愛する、というと慈しむ、大事にする、というニュアンスが強くなりますが、そもそもは自分が自分であることを認め、承認する、それが自分を愛する、ということです。自分の感情も含めて。何もいけないことではないし、恥ずかしいことでもないですよね。もちろん傲慢であるはずがない。

 

自分の命を尊重する、ただそれだけのことですから。

 

その、ただそれだけのことがなかなかできていない場合がほとんど。

 

その状態を「自己愛の欠如」と言います。

 

自分で自分がわからない。すると、何か大きな存在に頼りたくなったり、あるいは自分を大きく見せようとして無理をしたり。その状態がずっと続けば、自分自身を見失い、バランスが崩れる。ひどい時には暴力行為で自分をごまかそうとする、自分で自分のこころの行き場がわからなくて誰かを傷つけてしまう。あるいは自分で自分を傷つける自己免疫疾患などの発症にもつながったり。

 

私たちには肉体があります。肉体がある限り「エゴ」はなくならない。その「エゴ」を認める、受け容れる。そして「上手に付き合っていく」。「エゴ」は敵ではなく、自分を知るための大切なパートナー、または自分を生きるうえで必要なパートナーです。

 

そのパートナーも含め愛する。それが自分を愛する、ということではないでしょうか。

 

私は仏教は門外漢。ほとんど理解できていません。そんな私にとって仏教は素晴らしい真理、教えだと思う反面、現実的にどうなんだろう ?   と感じるところがあります。実社会に即しているのかと。私たちの中に無意識にしみ込んでいるこの概念のお蔭で生きやすくなっているところがあるのは本当にありがたいこと。けれど違和感を感じるところがあるのなら、「そういうところもあるよね」とあとずさりをすることがあってもいいんじゃないでしょうか。鵜呑みにするのではなく。

 

仏教徒の方は別ですけど。

 

そう、私は無神論ではないけれど、いわゆる「無宗教」なのでそう感じるだけなのかもしれません。人にはそれぞれ人生の課題があって、どんな人生もすべて尊重されるべき。仏教の教えがとてつもなく心地よい場合はそれを受け容れればいいし、私みたいにある部分は理解できるけれど、ここはちょっと、と感じるところもある、という場合はそれなりのお付き合いをすればいいのかな、と。

 

だとすると、私は自分を愛する、そのことを大切にしていきたいな、と感じました。その仏教系の本を読んだお蔭で、「自己愛」にさらに一歩近づけました。

 

なぜ、その本を読んだのか、というと、あまりにもわからないままだと何も考えられないから。

 

その本は、タイトルの割にかなり本格的に宗教のことが書かれていてとても勉強になりました。ちょうどいいタイミングで出逢えた気がします。

 

今の私にとっては「自分を愛するってどういうことなんだろう」と真剣に考えていくことが必要だったから。

 

自分を愛する、自分を認める、自分を尊重する。

 

私はすごく苦手なんだと気づきました、これらのことが。今まで自分なりに気を付けてきたのにも関わらず。この「苦手」を受け容れながら、自分への愛、一つ一つ育んでいきたいな、とあらためて感じました。

 

自分を愛せないと、他の人もモノも愛せない。愛は共鳴し合うことによって体感できるものだから。そう、自分の中に自分への愛があるから、他の人からの愛も感じられるし、他の人への愛も感じられるのです。

 

まず、自分自身への、愛。そうしないと愛のエネルギー、枯渇しちゃいますものね。パワー・チャージが必要。

 

「人の喜びのため」より、「自分自身に向けて」

 

 

 

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※ 追記

 

心理学的には、仏教、「大いにあり」です。実際、私もセルフ・ケアを含めて仏教的な「すべての受容」概念を自然に取り入れています。が、なんでもかんでも仏教か、というと、そこまでは。

 

それは私がまだその段階に達していない、ということなのかもしれません。今は必要なところとそうでないところを分けている段階かもしれませんね。それでは「全受容」にならないわけですが、そのプロセスにある「識別」をしているところなので、取り方によっては「受容」の道 ? 

 

いずれにしても今の自分を愛していくことが私にとってはものすごく大切なことだと感じています。

 

なぜなら、置き去りにしてきてしまった子どもの時の私がそれを望んでいるから。

 

「私を愛して」

 

自分を愛する秘訣、ちゃんと視えてきました。ということは、今は自分を愛する時。

 

自分を愛すると意識しはじめると確かに『不安・恐れへの依存』が少なくなるのです。愛が勝るから、自然に。

 

 

 

 

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