『すべてが満ちていた』

 

「私たちはすべてが満ちていた。満ち溢れていた」

 

2019年10月1日、めざめと共に浮かんできたメッセージです。

 

私たちの中にはすべてつまっていました、私たちに必要なものが。この概念を言葉では聴いたことがあるのではないでしょうか。

 

すべて私たちの中につまっている、と。

 

これは充足感を意味しています、満足感。「あ~、お腹いっぱい」みたいな感じ。いい意味での。

 

ところがたいていの場合、私たちは「何かが足りない、何かが欠乏している」と感じています。

 

愛、豊かさ、感謝。すべて外に求めるのです、他者に求めるのです。足りない、足りない、と。

 

それらはすでに私たちの中にいっぱい詰まっていたというのに。

 

この感覚がストンと腑に落ちました。

 

つまっていた何かが満ち満ちて外にあふれ出している感覚です。

 

私の場合、自分への愛を徹底的に優先する、という時間を持ちました。

 

人は大切、他者は大切、けれど何よりも自分が大切だ、と。

 

こういう考え方をすると日本では自己中と言われたりもします。そういう価値観なのです、私たち日本人は。まず人のために、誰かのために何かをする自分を目標に掲げます。

 

私自身、ずぅっとそうやって生きてきました。自分優先ではなく、他者優先。

 

けれどどこかがおかしい。そんな想いがふつふつとわいてきて、特にここ数か月、自分を愛そう、徹底的に。自分を認めて受け容れよう、全受容をしようと、今までの自分とは正反対のスタンスを貫きました。

 

自分のハートのカップを愛で満たしたのです、自分自身への愛で。

 

その愛がカップいっぱいになって、外にあふれ出しました。

 

愛が満ち満ちて。

 

それが「すべてが満ちていた」感覚、「すべてが満ち溢れていた」感覚。やっと思い出したのです、すべては 

私の中につまっていたという事実を。

 

これはすべての人に言えることではないでしょうか。

 

宗教には疎いので正確な表現ではないかもしれません、宗教的には「自己愛」は捨てるべきものとされています。無宗教と言いながら私たちにはそれが既成概念として息づいています。そのため、自分を最優先することができないまま大人になってしまいます。もちろんそれが集団生活をする上で良い面にあらわれることもあれば、同時に自己肯定ができない、という、個人的生きづらさの根本にもつながってきています。

 

この仕組みに気づいた時点で、「仏教徒」である前に、私自身で生きたいと強くハートが訴えてきました。「仏教徒」を否定しているのではなく、そういうくくりのない、さらに純粋な私を生きたいと。

 

その手法として、「自分を認め受け容れ愛する」という「自己愛」という概念にたどり着き、とにかく自分に向き合おう、自分の闇も抱きしめよう、と。闇はいけないものではなく、光が少ない状態なだけ。闇に意識をフォーカスすると、それは光が当たったことになって、闇という概念そのものが光に転じます。闇を見つめれば見つめるほど、自分の光度合いが高くなっていくのです。

 

そしてたどり着いたのは充足感。あぁ、足りないものなんて何にもなかった、すべて私の中にあった。それを見落として足りない足りないと外に援軍を求めていただけだった。

 

愛と豊かさは全部自分の中につまっていました。それらを想い出せばいいだけでした。それらを想い出すことは自己中でもなんでもありませんでした。

 

この感覚がきのうの朝、急に蘇ってきたのです。

 

先ほど外出した時に、黄金色の蝶々が私のそばを旋回してくれました。黄金色の蝶々自体、珍しくないですか。

 

「黄金色」、物質的、精神的豊かさの象徴と言われている色です。私たちの身体の中に黄金色に輝く場所が存在するといいます。それは「ハラ」、丹田のあたり。

 

当エッセイを続けてご覧くださっている場合にはおわかりになるかと思いますが、私は「ハラ」についても触れていますね、数週間前に。「ハラ」、生命力の源とつながるところ。

 

先週私はタイに行ってきました。タイの寺院はどこもかしこも黄金色。僧侶の法衣はオレンジ色。オレンジ色は一説にはゴールドとほぼ同じ意味合いがあるとする捉え方があります。

 

そして先ほどの「黄金色の蝶々」。黄金色からイメージされるものに黄金郷というものがあります。伝説上の理想郷のこと。この理想郷はどこか外の世界に存在するのではなく、私たちの内に存在しているもの。その存在箇所が「ハラ」なのです。

 

この「ハラ」に意識を寄せて、「ハラ」のエネルギーと同調、共振、協調すれば私たちは自分自身の力で理想郷としての黄金郷を創り出していける。

 

蝶には「変容」の意味や、イキイキとした人生の舞い、人生の歓喜などのメッセージがあるとされています。

 

私がここのところ、ずぅっと「自己愛」とお伝えし続けてきたことの答えが今、蝶の舞いと共に私にもたらされました。

 

私たちは内なる豊かさと共に、人生を享受する資格を与えられています、すべての命に。その豊かさは満ち満ちていつもカップからしたたり落ちるほど。それがデフォルトです、わたしたちすべての命の。

 

欠乏感は幻想でした、エゴが創り出した。

 

充足感を感じることこそ、真の豊かさの創造につながります。

 

その第一歩は、自分を愛すること、自分自身の愛で自分のハートを満たすこと、です。

 

仏教国であるタイが、この事実を伝えてくれたことに意味がありそう。一般に修行僧というのは、自分の内に「絶対的幸福」を見出すために修行するんだとか。そのために彼らは自我を捨てなければなりません。

 

私たち一般人は修行僧ではありませんから、自我を捨てずに自我と上手に手を組みながら私たち流のやり方で「絶対的幸福」を見つけてもいいはず。そのポイントが「自己愛」です。「自愛」です。

  

プラーナ、氣、マナ、つながりました ! のエッセイの中で、私は「自分自身への無条件の愛」ということをお話しています。

 

すべてつながっていますね、私のお話は。ということは、今の地球にふさわしいのは、「自分自身への無条件の愛」ということになりませんか、少なくとも私の世界ではそうなっているみたいです。

 

自分を置き去りにして一生懸命生きてきたあなたへ。何かの響きがあるといいな、と思いながら当エッセイを執筆しました。なぜなら、私自身と同じように十分すぎるほど辛い時間を必死に生きていると感じるから。

 

今まではそれがベストでした。地球のエネルギーがリアルタイムで変わりつつある今、私たち自身もそれに合わせて変わる時がきたのかもしれませんね。

 

自分自身を大切に。

 

大丈夫。すべての命は源である無条件の愛とつながっているから。その接点、結合点が「ハラ」。

 

 

 

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※ 追記  当エッセイの前記事は2019年10月1日『タイにトリップ !』

 

参考 『アニマルスピーク~自然の力を借りる』 テッド・アンドリューズ著

 

この世の仕組みがわかってしまいました、少しだけ。私たちに充足感ではなく欠乏感を感じさせようとする何かの存在があるということに。けれど欠乏感があるからこそ充足感が味わえる、という事実もあります。ということは、欠乏感を感じさせようとする存在も、私たちの「充足感パートナー」であるということですね。

 

 

 

 

 

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