タイ旅行は何を意味していたのか ?

 

「こういうことだったんだ。何かに包まれている」

 

今朝の目覚めの感覚です。

 

当エッセイ、執筆2019年10月6日。なぜかアップできずに翌日7日の更新になりました。

 

さて。

 

先々週、タイに行ってきました。旅レポを、と思いながら、川の流れがはやすぎて、どうもタイについてお話できないままです。

 

いきなり結論が先に届いている感じ。その結論とは ?  今回私は完全に「呼ばれたな」と感じました。元々タイは大好きな国なのですが、今まではリゾート・エリアだったんですね、海とおいしい食べ物、みたいな感じでとにかくリラックス目的。ところが今回はバンコク。

 

バンコクはタイの首都です。チャオプラヤ川という川が流れていて、いわばリバー・サイドエリア。東京でいうと、墨田川周辺とか豊洲、お台場みたいな感じでしょうか。もっとも私はタイに行く直前まで「今回もリゾートだ」と思っていました。旅行準備で美容院に行って、「阿部さん、バンコクはリゾートじゃないですよ」と言われ、はじめて気づいたくらい。

 

旅先地選定はいつも主人にお任せです。だから旅行前に勉強もしない、計画も立てない。基本行き当たりばったり派。今回もそうです。ただホテルだけはリゾート・タイプだったんです、植栽の充実した低層のホテル。かなりバリ・チック。ちなみに私はバリもタイもベトナムも大好き、そうリゾート・フリーク、特にアジア・エリアの、なので、泊まるところは傾向が似ています。今回もあれだけ緑深いホテルなんだから当然リゾートなんだろう、とすごい思い込みですよね。

 

初日着いたのは真夜中。二日目はスコールの繰り返し。そんな中でなぜか私は「お寺に行こう」と。実は私は観光というものが苦手で、お寺とか歴史的建造物とか、あまり自分から行きたいとは思わない方です。ところがなぜか、この時は「お寺、お寺」と自分の中の誰かが叫んでいて、行ってきました、かなりの雨の中。二か所も。

 

元々タイというのは仏教国ですからお寺の数は半端ない。今まで二回タイに行っていますが、一回も寺院に足を運んだことがない方が不思議なくらい。

 

天気予報は旅行中、全日雨。ところが雨が降ったのはその日だけ。雨でも降らなきゃ「お寺に行こう」なんて言い出さなかったんじゃないかとも思えて、やっぱり「計られてる」、「導かれている」、そんな気がしました。

 

タイは日本と異なり上座部仏教。日本は大乗仏教。タイでは少年も出家することがあって、ただしそく僧侶になれるわけではなく成人する前の彼らは「見習い僧」という位置づけだそうです。ある寺院の中で偶然少年僧に出逢ったのですが、その時、瞬時に感じたのは、「僕は君たちとは違うからね」という、ある種の優越感でした。

 

タイでは僧侶は特別なもの。その僧侶への第一歩を踏み出した少年は、おそらくほんの少しの不自由さのかげに「優越感」という感情を併せ持つことでバランスを取っているのではないでしょうか。もちろん、たまたま私の目にはそう映っただけで、他の人が同じように感じたということはないかもしれませんね、あくまでも「私は」、です。

 

そう、今回は仏教という宗教に呼ばれた、もっと言ってしまうと、お釈迦さんに通じる何か。少年僧に遭遇した瞬間にそう感じました。

 

私は仏教徒ではないし無宗教だし。けれどここ数年、どうも宗教についてさまざまな疑問を感じていました。馴染みの深いところで最初にキリスト教、その次にヒンドゥー教、正確にはヒンドゥー哲学。最後までスッキリしなかったのが仏教でした。

 

日本では今、仏教ブーム、禅ブーム真っ盛りですが、そのこと自体も私には何かが引っ掛かっていて。悪いという意味での引っ掛かりではなく、何かクリアしなければいけないものがあるという引っ掛かり。二か月くらい前には、宗教学者の中沢新一の本も読みました。初、です、彼の著書は。かなり深い本でした。それでもスッキリしない。謎が解けない。

 

それでタイに行って「お寺、お寺」と言っている自分を感じて、あぁ、なるほど、まずお寺に行けと、そこで何かを感じろということなんだな、と気づいたのです。

 

旅の終わりにお釈迦さんのエネルギーに問いかけてみました。

 

「今のこの世界的仏教ブーム、どう感じていますか」

 

すると、言葉ではなく概念でそれらしき返事が戻ってきました。おそらく私の潜在意識から浮かんできたものでしょう。

 

その返事は強い否定ではないとまどいのニュアンス。その後、「あなたはあらゆる制限をとくためにここにやってきたんじゃないですか。あなたの想うようにあなたを解き放つといい」というイメージの概念が浮かんできたのです。

 

お釈迦さんの教えに疎い私は、一つだけその教えらしい言葉を知っていて、それは、『自灯明』。さまざまな僧侶がさまざまな解釈をしているので何が正解かは知りません。私に一番響くのは「自らをよりどころとしなさい」という解釈です。

 

この言葉が今回の旅の答えなのだろうと。

 

「さぁ、制限を外す時だよ。自由になりなさい、自分自身を解き放ちなさい」

 

そう、自由になれと「誰」かが私に気づかせるために私をちょうどこのタイミングでタイ・バンコクに呼んだのだろう、とそんな風に思えてならないのです。

 

「自由」

 

私が一番好きな言葉。「自らを由とする」という意味です。自分自身の真ん中につながってそれを由とすることが自由なのだと。

 

すると『自灯明』につながりませんか。

 

ちなみにお釈迦さんの教えには「信仰さえ手放せ」というものがあるんだとか。

 

すべてを解き放ちなさい。

 

これでやっと仏教に関するひっかかりが解けました。仏教否定ではないし宗教否定でもありません。ただ私の生き方としての私の救いは私自身の真ん中とつながること。

 

とすると、タイから戻ってきてから執筆したエッセイの一連の流れがスッキリするんです。しっかりと川になっている。

 

特に『すべてが満ちていた』光は勝手に流れるもの は、まさに、という感じではないでしょうか。

 

お釈迦さんの意味する『自灯明』の「灯」は「ともしび」の意味ではなく、「川の中州」の意味だとする解釈もあるそうです。私たちは「中州の州の点のような存在だ。そうあるものだ」という意味。

 

さて、川の流れに同調する。宗教家ではない私たちがそう生きるためには、何を手放せばいいのでしょう。私は自自分自身への無条件の愛を制限するものはすべて手放そう、と感じています。まだまだ制限がたくさんある。お釈迦さんの教えでは、自分さえも手放せ、と。そこが宗教家と私たちとの壁になっているのかも。その壁さえ手放してしまえ、が今回のメッセージの真意なのかもしれませんね。

 

それにしても。もしかしてあのタイの少年僧はかつての私だったとか ? あの小生意気そうな強い目、見おぼえがあるんです。それとも鏡の中の自分とか ?

 

妄想の世界です、完全に。けれどその妄想に1%の真実もないと言い切れるほどの確信は私にはありません。

 

そうそう、滞在したホテルは十分リゾート・チックで、ホテルに棲みついているたくさんの生き物からもメッセージをもらいましたよ。リゾートではなくてもリゾートを感じることはできるということ。すべての意識は自分次第ということみたいですね。

 

もしも興味がわくようでしたら、2019年9月28日にアップした90909のメッセージは ?のエッセイ以降、すべてのエッセイに眼を通してみてください。大きなエネルギーの変化を感じられるかもしれませんから。

 

ここからは2019年10月7日に加筆しました。

 

なぜこのエッセイの更新が一日延びたのかその理由がわかりました。

 

「カルマ」の解釈。たまたま見つけた動画でカルマの解釈がなされていたのですが、一般に言われているカルマとは異なっていたんです。

 

仏教と言えば輪廻転生とカルマ、みたいなイメージないですか。

 

そこそこ、そこがね、微妙に引っ掛かるんだな、何かが。とお釈迦さんは言いたいのではないでしょうか。これも妄想。もちろん。

 

 

 

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※ 追記 当エッセイの前記事は2019年10月4日、光は勝手に流れるもの 

 

おととい、きのうとまたも微熱とノドの痛み。症状そのものは風邪と同じですがその真意はノドのチャクラのブロックの解放。きょうは後少しで完治のところまで来ています。

 

 

 

 

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